Chapter6 鍵を握る悪魔
21:水晶の記憶
神殿の一番奥にある、大広間。
そこに入ると、ウィズダムは普段は開け放たれている木製の扉を閉めた。
これから行う術は、かなり高度なものだから、危険を防止するためにも他の者の立ち入りを禁止する、というのがその理由だ。
鍵はかけないものの、周囲に他の者たちがいないか用心深く気配を探る。
暫くすると、納得したらしい彼は、漸くペリドッドの立つ祭壇に戻ってきた。
目が合った途端、体が強張る。
緊張しているのだと気づいたのは、自分を見たウィズダムが大きなため息を吐き出したからだった。
『始めに言っておくが……』
少し呆れたと言わんばかりの顔でこちらを見下ろした彼が、静かに口を開く。
『これから行う術は、本来ならば人間の身では扱うことはできないものだ』
「さ、さっきは出来そうなこと言ってたのに?」
『……まさか本当にやるとは思わなかったからな。冗談のつもりだったのだ』
「え……」
ウィズダムが冗談を言ったという事実に対する驚きと、騙されたことに対する怒りで叫び出したくなる気持ちをぐっと堪える。
代わりに、いつものように笑みを浮かべて、からかうように言ってやった。
「あー。あたしたちがあんまり一生懸命だったから、断れなかったっていうオチだー。わーお!ウィズダムって可愛いトコもあるんだねぇ~」
『……やめるぞ』
「わーっ!うそうそっ!ごめんなさいっ!!」
ぎろりと睨まれ、慌てて謝る。
せっかく精霊神法を会得するチャンスが出来たというのに、それがいきなり駄目になるなんて堪らない。
だから、少しオーバーだと思うリアクションを取りながら、必死で謝った。
最初はむすっとした表情で見下ろしていたウィズダムも、こちらがあまりにも必死なものだから、それで少しは機嫌を直してくれたらしい。
『いいか?もう一度だけ言うぞ』
腕組をしてもう一度ため息をつくと、怒りを消した声音で口を開いた。
『この術は、本来ならば人間の身で扱うことは叶わぬものだ。故に、術の行使は私が行う。お前は水晶の記憶の中から、目的のものだけを読み取ることに専念しろ』
「目的のものだけに?」
鸚鵡返しに尋ねれば、ウィズダムは神妙な顔で頷いた。
「もしも、他のものに目が行っちゃったら?」
『意識を向けたものに吸い寄せられ、最悪の場合、お前の意識は二度とここには戻ってこないだろう。戻れたとしても……水晶の中に収められた様々な記憶に塗り潰され、正気を保てないかもしれん』
「……そ、そんなにやばい術なの?これ……?」
『ああ。だからこそ、他のものには目を向けるなと言っているのだ』
ごくりと息を呑む。
精霊神法が得られるならばと、軽い気持ちで申し出た記憶の読み取り。
それが、そんなに危険な術だとは思ってもみなかった。
『……やめるか?』
怖気づいた表情を浮かべてしまったのか、ウィズダムが無表情のまま尋ねてくる。
正直を言えば、怖い。
もしも、自分に集中力が足らなくて、他のものに目が行ってしまったら。
もしも、水晶に囚われてしまって、ここに戻ってくることが出来なかったら。
それを考えると、怖くて足が震える。
今からでも宣言を撤回して、みんなのところに戻りたくなる。
だけど。
一度大きく息を吸い込んでから、はぁぁっと吐き出す。
それから、ぱんっと両手で頬を思い切り叩いた。
それだけで、少しは頭がすっきりして、恐怖がなくなっていくかのように感じる。
気のせいかもしれないけれど、今はそれで十分だった。
顔を上げた途端、訝しげに眉を寄せるウィズダムと目が合った。
おそらく、自分の突然の行動の意図が理解できなかったのだろう。
そんな彼に向かって笑ってみせる。
いつもの、仲間といるときと同じ笑顔で、にっこりと。
「やめないよ!ここで戻ったら、一緒に頼んでくれたみんなに悪いもん」
きっとここでやめても、みんなは責めないでいてくれると思う。
レミアはともかくとしても、ルビーあたりは呆れながら、笑って許してくれるだろう。
彼女は、普段はああでも、こういうときは人の気持ちに敏感な人だから。
だからと言って、ここで甘えて逃げても、何の解決にもならないから。
逃げて後悔するよりは、試して後悔した方が、ずっといい。
「だから、お願いします」
真っ直ぐに彼の目を見て、はっきりと告げる。
少しの間、驚きの色を浮かべてこちらを見返していたウィズダムは、やがてふっと笑った。
『わかった』
一言、本当に短くそう告げると、そのまま祭壇へ上る。
ペリドッドのすぐ側まで来ると、彼は手を差し出した。
『魔法の水晶を』
「は、はい」
いよいよ始まるのだと自覚した途端、体に緊張が走る。
水晶を出す手が震えてしまっていたかもしれない。
けれど、それは思い違いなのか、それともウィズダムが気にしていないだけなのか、彼は何も言わずに差し出した水晶を手に取った。
薄く空を映したような色の水晶球。
それを少し掲げるように持って、静かに詠唱だろう言葉を紡ぎ始める。
だろう、というのは、彼の紡ぐ言葉がわからなかったからだ。
彼の口から紡がれる聞いたことのない言葉は、おそらくはリーナが魔力を行使する際に使うものと同じ古代語だろう。
公用語以外を使う国自体がほとんどないこの世界で、自分たちの知らない言葉はそれくらいしか思いつかなかった。
そんなことを考えているうちに、詠唱は終わったようだった。
ウィズダムの手の中にある水晶が淡い光を放ち始める。
その表面は、まるでそこにあること自体が嘘のように透き通り、核となる部分がはっきりと見えていた。
もう少し光が強くなれば、今はぼんやりと見えているその輪郭さえもなくなって、核だけになってしまうだろう。
『オーサー』
思わずその光景に見入っていたペリドッドは、低い声で名を呼ばれて我に返る。
見上げれば、ウィズダムは早くしろと言わんばかりの目でこちらを見下ろしていた。
「え、えっと……?」
どうすればいいのかわからなくて、もう一度ウィズダムを見上げる。
その表情だけで、彼は言いたいことを悟ってくれたらしかった。
『核に手を触れればいい。そうすれば、お前の意識は核の中に吸い込まれる』
「わ、わかった」
震えを何とか抑えて、核に手を伸ばす。
もう少しで触れようというところで、その手が止まった。
背中に、つうっと汗が落ちていくのを感じる。
緊張で乾いた口を、無理矢理唾を飲み込むことで潤そうと試みる。
もっとも、からからに乾いた口の中に唾があるはずもなく、そんな小さな努力は報われないまま終わってしまうのだけれど、せずにはいられなかった。
「……行くよ」
ウィズダムに告げたわけではない。
それは、自分の決心を固めるための、掛け声のようなものだった。
だからペリドッドが答えを待つはずがない。
ウィズダムが口を開く前に、ペリドッドの手が核に触れる。
その途端、目も開けていられないほどの眩しい光が放たれた。
まるで電撃でも走ったかのような光に驚き、一瞬手を引っ込めそうになる。
その手を、ウィズダムの水晶を持っていない片腕が掴んだ。
『手を離すな!このまま耐えよ!』
「は、はい!」
思わず丁寧な返事を返して、引っ込めようとした手をもう一度伸ばす。
自分の手が、ちゃんと自分の意志で核に触れていることを確認したウィズダムの手が、離れていく。
代わりに返ってきたのは、念の押すような言葉だった。
『得たい物だけに集中し、他の物は視界に入れるな。いいな?』
「うん。十分わかった」
『ならば、行って来い』
ウィズダムがそう言った途端、ふわっと体が浮き上がるような感覚に包まれた。
だが、それはほんの一瞬で、すぐに真逆の感覚に襲われた。
床に立っていたはずなのに、それが突然消失して、がくんと落ちる。
「うわぁっ!?」
ぶわっと足元から襲ってくる光に飲み込まれ、思わず目を閉じ、頭を覆いながら悲鳴を上げる。
そうしてしまってから、気づいた。
「まず……っ!!」
核から、手を離してしまった。
あれだけ、手を離さずに耐えろと言われていたのに。
慌ててもう一度核に触ろうとするけれど、目の前には水晶どころか、ウィズダムの姿さえなくなっていた。
「え?ええ!?」
突然の出来事に、混乱する。
けれど、すぐにその理由に思い当たって、軽く頭を振った。
落下しながら頭を振るというのも何だか変な話だけれど、そうする以外に自分を落ち着ける方法が思い浮かばなかった。
やがて、下の方に緑の大地が見えてくる。
途端に体が軽くなったような感じた。
まるで、パラシュートでも背負っているかのように、落ちる速度が遅くなる。
地面に着く頃には、塀の上から飛び降りたとき程度の速度になっていて、楽に着地することができた。
「うわっと……」
軽く足を突いただけなのに、浮き上がってしまいそうな感覚。
月とか宇宙とか、そういうわけでもないのにそんな感覚を覚えるのは、ここが『記憶の中の世界』というやつだからだろうか。
「そんなことよりも!」
この世界の探索よりも、今は呪文書だ。
そのために、ここまで来たのだから。
それに、ウィズダムが言っていた。
目的のもの以外の物に意識を示してはいけないと。
だから、必死に周囲を見回して、目的の呪文書を探す。
この術を行使しているのはウィズダムだ。
あの口ぶりからすると、彼はあの呪文を作ったのが誰かを知っている。
だから、この記憶のどこに呪文書があるのか、それも知っているはずだ。
ならきっと、自分をその近くに導いてくれたはず。
そう思ったからこそ、辺りをぐるりと見回した。
二、三度そうしたとき、不意に緑の中に、白いものを見つけた。
その色に引かれて、振り返る。
広がる草原の草の中で、たった一点だけ白く見えるもの。
草の中に隠れたそれに駆け寄ったのは、無意識だった。
足を動かすごとにはっきりと見えてくるそれは、白くて四角い何か。
風で揺れる草に邪魔されてはっきりとわからなかったけれど、日の光に晒された上面は平らで、何か書いてあるように見えた。
「あ……!」
側まで走り寄って、覗き込んで、漸くはっきりと確認できたそれは、製本された分厚い書物で。
その表紙に書かれている文字の形も、紋章も、ネヴィルに燃やされたあの本と同じものだった。
「うっそぉ……」
あまりにあっさりと見つけられたことに、思わず驚きを隠しきれない。
確かに、ウィズダムは自分を近くに導いてくれて、最初に見つけたこれがそうだろうと考えはしたけれど、それは確信より願いに近いものだったから。
心の奥底の本心では、そんなにあっさりと見つかるはずがないと思っていたから、あまりにもあっけない発見に、思わず状況を忘れて呆然としてしまう。
「……これ、でいいんだよね?」
本を取ろうと、恐る恐る手を伸ばしてみる。
途端に強い風が吹いて、草をざざっと鳴らした。
その音に驚いて、伸ばしかけた手を引っ込めてしまう。
ここは『魔法の水晶』の中の世界だ。
他には誰もいないはずだし、ましてや自分を邪魔する者がいるとは思えない。
なのに、飛び退いて周囲を見回してしまうのは、この書物の存在が罠だと疑っている自分がいるからだ。
そんなはずはない。
この世界で、誰が自分を罠に掛けるというのか。
まさかネヴィルだって、自分がこんなことをしていることなど、予想もしていないだろう。
あいつに呪文書を燃やされて以来、あまりにも臆病になってしまっている自分に活を入れるために、もう一度両手で頬を叩く。
じんじんとした痛みが引くのを待って、目を開けた。
白い本は、目を閉じる前と変わらない姿でそこにあった。
小さく深呼吸をして、もう一度その本に手を伸ばす。
そして今度こそ、その本を手に取った。
素早く手を引いて、本を腕の中に抱き込む。
一瞬だけ風が強く吹いて、再び草がざざっと鳴った。
暫くそうやって座り込んでいたけれど、周囲は変化する様子を見せない。
ただ風が吹いているだけで、本のあった場所から何か飛び出してくるとか、抱き込んだ本が綺麗さっぱり消えてしまうとか、そういう類のことは起こらなかった。
それを確認して、漸くほっと一息つく。
そうしてから、気づいた。
「……あたし、どうやって帰るんだろう?」
術を使っているのはウィズダムだ。
だから、自分では帰り方がわからない。
その事実に気づいてしまってから、先に聞いておくべきだったのだと後悔する。
今更そんなことをしても、遅いのだということはわかっているけれど。
「……呼びかければなんとかなるかな?」
何の根拠もない思いつき。
それでもやらないよりはマシだと思って、立ち上がろうとしたそのときだった。
「え……?」
顔を上げた途端、目の前に影がかかる。
今まで何もなく、誰もいなかったはずのそこに、誰かが立っていた。
長い長い、腰よりも長い若草色の髪を、結いもせずに風に遊ばせている、女性。
髪に隠れてしまっているその顔は、しゃがみ込んでいる自分からは、見えない。
そう思った瞬間に、三度ざあっと風が吹く。
風に遊ばせていた女性の髪が、自然に任せるまま、ふわりと舞い上がった。
顔を覆っていた髪も、共に宙に舞い上がる。
その瞬間、見えた顔に、瞳の色に、思わず息を呑んだ。
伏せていた顔は、自分のよく知るもの。
いいや、よく知っているどころか、毎朝必ず見ている顔で。
交わった瞳は、髪と同じ若草色。
「あ……」
思わず声を漏らしたその瞬間、突然体が傾いた。
「えっ!?」
何の前触れもなかったそれに、驚いて足元を見る。
見れば、今までそこに多い茂っていた草はまるで腐ったようにどろりと崩れ、大地が沈み始めていた。
「な、何これっ!?」
慌てて立ち上がろうとするけれど、地面がぬかるみになってしまったせいで、それすら叶わない。
せめて本を落とさないように懸命に抱き込むけれど、足がどんどんと沈んでしまっているこの場所では、それすら無駄な抵抗のように思えた。
そのとき、ざっと音がして、自分の上に影が落ちる。
はっと顔を上げると、さきほどの女性が、いつの間にかすぐ目の前まで来ていた。
その顔は、もう髪に隠れてしまっていて、見えない。
でも、あの顔は、確かに。
『オーサーっ!!』
突然耳に男性の声が飛び込んできて、はっと空を見上げる。
もうすっかり聞き慣れてしまったその声は、間違えようもない。
「ウィズダムっ!!」
反射的にその名を呼んだ途端、ぐいっと襟首を引っ張られた。
普段は胸元にあるボタンが首に押し付けられて、喉が詰まる。
けれど、苦しいと思ったのは一瞬だった。
瞬く間に浮き上がったからだが、ぬかるみから救い上げられる。
靴が完全に浮き上がり、ほっとした途端、再び女と目が会った。
大地に残るその女は、その若草色の瞳を真っ直ぐにこちらに向けていて。
「……」
それに、何か答えようとしたその瞬間、再び空からウィズダムの怒声が聞こえた。
『呪文書以外に意識を向けるな!目を閉じろっ!!』
突然のそれに、びくりと条件反射に体が震える。
けれど同時に、自分の過ちに気がついて、蒼白になった。
そうだ。
ウィズダムは最初に警告していてくれた。
呪文書以外のものに意識を向けたら、戻ってこれないかもしれないぞ、と。
「……っ!」
思い出したら、もう女を見ようとは思えなかった。
腕の中の白い本を抱きしめて、ぎゅっと目を閉じる。
そのまま体を守るように身を丸くした。
その途端、体にかかっていた負荷が消える。
一瞬、何か不思議な感覚が、体を包んだ。
ぐるぐるぐるぐると、目を閉じているというのに、視界が回っている気がする。
平衡感覚がなくなって、どちらが上か下か、わからない。
それは一度だけではなく、何度も何度も襲ってきた。
回る回る回る、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いっ!!
あまりの気持ち悪さに、ぐっと体を丸めた瞬間。
体を包んでいた全ての感覚が消えて、ぐらりと傾く。
そのまま倒れていく自分に酷い恐怖を感じて、ペリドッドは思い切り悲鳴を上げていた。