Chapter6 鍵を握る悪魔
20:代用品
エスクール王都の西にある、精霊の森。
特定の人間以外を寄せ付けないその森の中心には、この国に人間が住み始める以前から妖精が住む集落が存在する。
その村の、最も奥まった場所にあるのが、ティーチャーの家である妖精神の神殿だ。
ペリドッドとミューズがスターシア王国から戻ったという知らせを受け、仲間たちはそこに集まっていた。
「そう……呪文書が……」
ミューズから話を聞き終わった直後、そう呟いたのはルビーだった。
話が進むうちに、誰もが予期せぬ事態に思考を混乱させる中、唯一冷静に言葉を発した彼女を、セレスがぎっと睨む。
「だから、どうして姉さんはそんなに冷静なのっ!?」
「だって、普段冷静な奴がああじゃねぇ……」
そう言ってルビーが示した先には、戻ってきて以来、ずっと落ち込んでいる様子のペリドッドの姿があった。
普段はこんな状況のとき、人一倍明るく振舞ってみせる彼女があんな様子を見せるのは、本当に珍しいことで。
それだけ事態が切迫しているのだと、集まった少女たちに突きつける。
だからこそ、ルビーは平然として言ってのけた。
「あたしまで取り乱したら、誰が収拾つけるわけ?」
全員が全員取り乱してしまっては、話が進まない。
何より、責任を感じているだろうペリドッドとミューズに、更なる重圧を押し付けることになる。
そんな事態を阻止するために、慌てたい気持ちを無理矢理押さえ込んで、冷静になろうと心がけているのだ。
焦ったところで、妙案なんて思いつくはずもないのだから。
「……何か、冷静と言うより、冷めてない?」
「そうかな?そんなことないと思うけど?」
首を傾げるルビーに、レミアは思わず眉を寄せる。
その途端、見計らったかのように大きなため息が聞こえた。
「ルビーが冷めているかどうかは置いておくとして」
ため息の主であるタイムが、わざと声量を大きくして割って入る。
思わず睨みつけたレミアなど気にもせずに、彼女の深緑色の瞳に視線を合わせ、尋ねた。
「これからどうするつもり?」
「どうするって……」
「呪文書は焼かれて、ネヴィルは体を取り替えてしまった。あたしたちの最初の目的は、ぜーんぶパアになったわけでしょ?」
「あ……っ!?」
考えてもいなかった事実に、レミアの顔が一気に青くなる。
その側で、同じく顔を真っ青にしたセレスが悲鳴のような声を上げた。
「そんな……!じゃあ、ミスリルさんは……っ!?」
「あ……。えっと……、ごめんなさい……」
「ティーチャーのせいじゃないでしょう」
「そうそう。むしろ、一生懸命やってくれてるもんね。称えるべきではあっても、責められる理由なんてないよ」
途端に暗い表情で俯いてしまったティーチャーに、タイムとルビーがすかさずフォローを入れる。
実際に、彼女はよくやってくれていた。
できる限りの範囲でミスリルが飲まされたものを探ろうと、書庫の書物を片っ端から読み漁っていたし、それを元に煎じた薬湯を作ってもいたのだ。
効果は確かに出なかったけれど、1人でそこまでやっていた彼女を、何もできずにいる自分たちが責められるはずもなかった。
「そもそも、ネヴィルの体の件だって、希望的観測の上での提案だったわけでしょ?そっちは振り出しに戻っただけだから、まだいいよ」
ネヴィルの体があれば、ワクチンが作れる。
そう言い出したのはペリドット自身で、自分たちも確かに賛成したけれど、確証があったわけではない。
ワクチンを作ることができたとしても、実際に効果があるのかどうかはわからないままなのだ。
だから、こちらはまだ諦めがつくのだけれと。
「問題は精霊神法だよね、やっぱり」
ルビーが真剣な口調でそう呟いた途端、ミューズが悔しそうに顔を歪め、俯く。
それに気づかないふりをしながら、眉間の皺がますます深くなっているレミアに視線を向けた。
「あたし、まだそういうの経験してないから聞きたいんだけどさ。その呪文書ってスペアはないの?」
「え……?」
途端に、レミアとセレスが顔を見合わせる。
数回瞬きを繰り返した後、2人は同時に首を傾げた。
「さあ……?どうなんだろう?」
「どうなんだろうって、知らないのか?」
「だって、あたしのときは呪文書、ちゃんとシルフ様のところにあったし。いちいち確かめるような余裕なんて、なかったし……」
「レミアだもんねー」
ぼそっと呟けば、途端に深緑色の瞳がぎろりと睨みつけてくる。
もちろん動じるはずもないルビーは、気づいていないふりをして、今度は妹へと視線を向けた。
「セレスは?」
「私もレミアさんと同じ。気にする必要なんてなかったから」
「あたしたちのは精霊神法とは違うしね」
「うん」
タイムの問いに、ティーチャーが素直に頷く。
「ミスリルは?」
「さあ……?そういう話はされませんでしたから」
ミスリルが精霊神法を手に入れた直後、リーフを除けば最初に顔を合わせただろうミューズにも尋ねてみたけれど、帰ってきたのは予想どおりの否定の答えだった。
けれど、余計だと判断したことは人に話さないミスリルのことだ。
言っていないだけという可能性も十分に考えられる。
だから、もう1人の当事者にも確認しようと後ろを振り返った。
「そうなの?ウィズダム」
「えっ!?」
突然口にした名前に、周囲が驚きの声を上げた。
全員の視線が、ルビーが見えている一点に集中する。
その途端、何の前触れもなく、その場に光が降り注いだ。
柱のように天井から伸びた光は、徐々に床に集まり、人の形を成す。
光が色を変えたとき、そこにいたのはルビーの言葉どおり、人の姿をしたウィズダムだった。
『よく私がいるのがわかったな』
「あれだけ気配隠してなくってよく言うよ」
悪態をつくようにそう答えた途端、ウィズダムが驚いたように目を瞠る。
「ミスリルに意識がないのに、どうして……?」
『私を普通の召喚生物と一緒にされては困るな、ウィンソウ』
驚きのあまり疑問を口に出してしまったレミアを、ウィズダムは不機嫌そうに睨みつけた。
『私の本体は精霊と同等の存在。主の魔力を介さずとも世界に存在することは可能だ』
通常、召喚魔法で呼び出す生物は、術者の魔力を媒介に世界に存在する。
人形師の魔力で動くゴーレムはもちろん、かつて敵対した和国の女が使っていた幻術の召喚獣たちも、術者の魔力が途絶えてしまえば、この世界で存在することはできない。
魔力が――正確には、それを制御する術者の意識が途絶えれば、ゴーレムは力を失って停止していまい、召喚獣は姿を維持することが出来ずに消えてしまう。
そんな通常の召喚獣とは違い、自分の意志だけでこの世界に存在できるのだと、ウィズダムは言っているのだ。
「それよりも、どうなの?」
そんなことはどうでもいいとばかりに尋ねれば、ウィズダムの眉が僅かに顰められた。
けれど、それは不快感を感じたからではなかった。
『……呪文書のスペアか……』
「そう」
『……』
視線を落としたウィズダムが、少し考え込むような仕種をする。
暫くして、話すつもりになったのか、彼は視線はそのまま、慎重な面持ちで口を開いた。
『それらの本は、人間のいう“古代語の時代”に書かれたものだ』
「ミルザの伝説によく出てくる『創世記』に?」
『ああ』
「でも、私が光の精霊様から頂いたものは公用語でしたよ?」
『おそらく、お前たちが手にしたものは、ミルザが原本を元に書き写したものだろう。つまり、それ自体が複製であったということだ』
「じゃあ、原本を探せばいいんですね!」
『いいや。それは不可能だ』
ぱあっと明るくなったセレスの希望を打ち砕かんとばかりに、ウィズダムは否定する。
『精霊のもとにあったものが複製であるのならば、おそらく原本は人間界には存在しない』
「人間界にはって、じゃあどこに……」
『お前たち人間が、決して向かうこと許されぬ場所だ』
戸惑うレミアに、ウィズダムが告げたのは思わず息を呑みたくなるような言葉だった。
人間界ではない、人間が足を踏み入れることを許されない場所。
そう言われて、思いつく場所はいくつかある。
その中で、最も可能性が高いだろう場所。
その名を口にしたのは、先ほどからほとんど話さず、黙って話を聞いていたベリーだった。
「それは、精霊界ということ?」
『いいや』
その問いさえも、ウィズダムははっきりと否定した。
『その場所は精霊神でさえも力も及ばぬ場所。人間には知ることすら許されなくなってしまった、神聖な領域。それゆえに、人間であるお前たちには手を出すことの出来ぬ場所だ。それがたとえ、ミルザの子孫であってもな』
「そんな……。それじゃあ、打つ手なしってことですか……?」
『いや……』
先ほどとは真逆の落ち込んだセレスの言葉を、ウィズダムが再び、即座に否定する。
意外すぎるその言葉に、その場にいる全員が彼に視線を集める。
けれど、当の本人は考え込むように視線を落とすだけで、その視線には気づいていないようだった。
「ウィズダム?」
ルビーの名を呼ぶ声に、ウィズダムは顔を上げる。
その顔は、未だに迷っているように見えて。
それでも心を決めたのか、茶色の瞳を真っ直ぐにこちらに向けた。
『精霊神法を扱える者は限られる。それは知っているのだろう?』
「マリエス様から、そう伺いました」
答えたのは、先ほどからずっと受け答えをしているセレスだ。
『私の記憶が確かならば、確かあれを使える者は、全てお前たちの持つ水晶に関わっていたはずだ』
「水晶って……、もしかして、これ?」
そう言ってルビーが見せたのは、掌に乗るサイズの赤い球体。
透き通ったそれは、彼女たちがこちらの世界の人間として目覚めたそのときからずっと共にある『魔法の水晶』だ。
水晶を見ていたウィズダムが、指先でそれに触れる。
ゆっくりと指を離すと、ウィズダムは頷いた。
『ミスリルから聞いた。お前たち、水晶に記録されていた母の記憶を見たのだろう?だから異世界で育ちながら、自らの本来の姿を知った』
「……ええ、そうです」
『ならば、もしかすると記憶されているかも知れんぞ?お前たちが探す呪文書の内容がな』
ウィズダムの指摘に、誰もがはっと彼を見る。
そうだ、忘れていた。
母は、自分たちに少しでも知識を与えるために、この水晶に様々な知識や記憶を残していた。
けれど、それをやったのが母だけだとは限らない。
もしかしたら、以前に精霊神法を使った先祖――ミルザの知識も残されているかもしれない。
誰もが光を見出したそのとき、ただ1人だけウィズダムに疑問を返した者がいた。
「それはミルザの記憶?」
『そして、精霊神法を生み出した術者の記憶だ』
真っ直ぐに自分を見つめるルビーに、ウィズダムははっきりと答える。
その答えを聞いた途端、レミアは自分の剣に目を落とした。
「え?でもこれって、精霊がミルザに渡したものでしょう?」
『精霊は預かり物をミルザに貸しているだけだ。それの本来の持ち主は別にいる』
これにはさすがのルビーも表情を変えた。
一族の始祖であるミルザから、代々当主に伝わってきた『魔法の水晶』。
精霊の上位種――と言ったらおかしいような気もしたが――の存在を疑い出した今でさえ、それは精霊からミルザに与えられたものだと信じていた。
いや、よく考えれば、それを疑う理由がなかっただけかもしれない。
「それって、マリエス様の言ってた、精霊の上にいる人たち?」
ルビーさえも驚き、考えを巡らせていたそのとき、妙にはっきりとした声が室内に響いた。
「ペリートさんっ!?」
驚くミューズの声で、漸くそれが誰だか知る。
先ほどまで部屋の隅で座り込み、ずっと落ち込んでいたペリドッドが、いつの間にか立ち上がって側にやってきていた。
「ちょっと待って。精霊の上にいる人って、何?」
誰よりも早くその疑問をぶつけたのは、ベリーだった。
ほとんど表情を変えずに、冷静を装って話を聞いていた彼女も、今はさすがに焦りという感情を表に出している。
それくらい、この世界に生きる者にとって、ペリドッドの言葉は聞き捨てならないものだった。
「マリエス様言ってんだ。『精霊は世界の頂点じゃない』って」
『……そんなことまで話したのか、精霊神は』
「『聖域大戦』のことを聞いたときの答えが、それだったんだ。それ以外は、何も教えてくれなかったけど……」
俯き気味だった若草色の瞳が、真っ直ぐにウィズダムを捉える。
その瞳は、先ほどまでの落ち込みが嘘のように真剣だった。
「でも、そんな風に言うってことは、そうなんだよね?」
『さあな。お前たちがそう思うのならそうなのだろう』
「ふーん……」
若草色の瞳が、疑うような眼差しでウィズダムを見る。
けれど、1分も経たないうちにそれは瞼に隠された。
「まあ、いいや」
あっさりとそう言い捨てると、心を落ち着かせようとでもいうのか、大きく深呼吸する。
数回それを繰り返したあと、体をほぐすように背伸びをすると、もう一度真っ直ぐにウィズダムを見た。
「それよりもさ、ウィズダム」
真っ直ぐに向けられる若草色の瞳は、真剣で。
けれど、その色は先ほどとは全く違っているように見えた。
「教えて。水晶の記憶の辿り方」
「ペリート!?」
「記憶のことそんな風に説明できるなら、辿り方だって知ってるよね?だからミルザの前の持ち主のこと、教えてくれたんだよね?」
周囲の驚きの声を無視して、ウィズダムに畳み掛けるように尋ねる。
驚いたように目を瞠っていたウィズダムは、一度目を閉じると、神妙な眼差しでペリドッドを見つめ返した。
『……本気か?』
「うん」
ウィズダムの問いに、間髪を入れずに答える。
「だってあたし、ミスリルちゃん助けたいもん」
そう続ける彼女は、口調はともかく、顔はこれでもかというほど真剣だった。
ふと、その表情が拗ねた子供のようになる。
「……それにさ。やられっぱなしってやっぱり悔しいじゃん」
「……ぷっ!」
少し迷ったような間を置いて、ぼそっと呟いた途端、それまで真剣に話を聞いていたはずのルビーが吹き出した。
「あーっ!!ひどいルビーちゃんっ!何で笑うのーっ!!」
「いや……。まさか、ここでそんなこと言うとは思わなくって……っ」
とうとう腹を抱えて笑い出したルビーに、ペリドッドは子供のようにぷくぅっと頬を膨らませる。
そんな光景を見ていたら、何だか緊迫していた自分たちが馬鹿みたいに思えた。
完全に肩の力が抜けてしまったミューズなど、思い切りため息をついている。
「ペリートさんって、案外負けず嫌いですよね……」
「そう?ずいぶんの間違いじゃない?」
隣に立つベリーがふうっと盛大なため息をついて答える。
「……そうですね」
一瞬目を丸くしたミューズは、今までのペリドッドの行動を思い出して、もう一度ため息をつきながら同意した。
当の本人は、自分をもう一度落ち着かせるためか、必死に深呼吸を繰り返していて。
最後に大きく息を吸い込んで、息を整えると、もう一度ウィズダムを見た。
「だからお願いします、ウィズダム」
何も言わない彼に向かって、勢いよく頭を下げる。
それを見た途端、ウィズダムが驚きに目を瞠ったのだけれど、頭を下げたペリドッドに、そんな彼の表情が見えるはずもなかった。
「あたしからもお願いするわ」
唐突に耳に飛び込んできた声に、ペリドッドは驚いて顔を上げた。
見れば、あのルビーが、その炎のような赤い瞳で、真っ直ぐにウィズダムを見つめていた。
「ルビーちゃん……」
その瞳に自分と同じ、痛いほどの真剣な色が浮かんでいることに気づいて、思わずその名を呼ぶ。
「私からも、お願いします!ウィズダム様っ!」
彼女の姿に驚いている間もなく、今度はセレスが勢いよく頭を下げた。
「あたしも」
「私もよ」
「あたしもです」
「私もっ!」
「私からも、お願いします」
皆が口々にそう言って、頭を下げる。
気づけば、ミューズが申し出る頃には、その場にいる全員がウィズダムに向かって頭を下げていた。
その姿を見たペリドッドの拳が、強く握られる。
色が白くなるほど力を込めたそれに気づかないまま、もう一度目の前にいる男を見た。
「ウィズダムっ!」
強く強く、その名を呼ぶ。
自分だけではなく、みんなもこうやって頼んでくれている。
だから、どうか自分たちの気持ちをわかってほしい。
そんな思いを込めて、強く彼の名を呼んだ。
ウィズダムの瞼が、ゆっくりと伏せられる。
再びその瞳が姿を現したとき、そこには閉じる前に浮かんでいた迷いは浮かんでいなかった。
『……わかった』
「ホントっ!?」
低い声で、それでもはっきりと耳に届いた答えに、ペリドッドの顔がぱっと明るくなる。
全員が頭を上げ、まじまじとした視線が集中する中、ウィズダムは動じた様子もなくタイムの肩の上にいたティーチャーへと目を向けた。
『広間を借りるぞ、ユーシスの娘』
「は、はいっ!」
『来い、オーサー』
「うん……じゃなくて、はいっ!!」
纏った衣の裾を翻して、ウィズダムが扉の向こう――神殿の最深部にある祭壇へと歩き出す。
ぱあっと笑顔を浮かべたペリドッドも、彼の後を追いかけ、部屋から駆け出していった。