Side Story
たったひとつのボタンの掛け違い 後
「セラフィム様」
封印の森の中にある神殿の一角で、声をかけられた青年は、ふいっと後ろを振り返る。
「おや、タイムさん。どうしましたか?」
そこにいたのは、長い青い髪を、頭の後ろで纏めた女性。
王都での魔物の襲撃事件の後、ルビーとともに戻ってきたタイムだった。
「ちょっと相談したいことがあるんですが」
「相談?私に?」
思いもよらない言葉に、首を傾げる。
「えっと……」
言い出しにくそうにもごもごと口を動かしたタイムは、少し悩んだ様子を見せながら、そっと手を差し出した。
開かれたその手のひらには、今にも小さな小さな、今にも消え入りそうな、光だった。
うっすらと赤く色づいているそれを見て、セラフィムは目を瞠った。
「それは……」
「はい。もう1人のルビーの魂です」
その答えに、セラフィムは怪訝な顔で彼女を見る。
「どうしてそんなものをあなたが?」
「城に戻るときに、彼女を、その……彼女が消えた場所に漂っていることに気づいて、放っておけずに回収しました」
ルビーの火の精霊神法と、タイムの水の精霊神法。
そのふたつは、どちらも『消滅』を軸とする呪文だ。
おそらくは2人とも、平行世界からの来たもう1人のルビーを、完全に消し去るつもりで呪文を放っただろう。
それでも、こうして魂が残っている、ということは。
「あたしもあいつも、この子を完全に消滅させようって、思えなかったのか」
ぽつりと、タイムが呟いた。
「単純に2人とも精霊神法が完璧に完成していなかったせいかもしれませんが」
そう言って、困ったように笑う。
それを見たセラフィムは、ふっと息を吐き出して、目を閉じた。
彼は人間ではない。
けれど、人間の気持ちがわからないわけでもない。
ルビーは、突然目の前に突きつけられた『可能性の自分』に動揺していた。
気丈に振る舞い、撃退してみせたけれども、現れた『可能性の自分』は、彼女の一番の弱点というかコンプレックスというか、それを刺激していたことは間違いない。
吹っ切っているように見せて、ミスが出ても仕方の無いことだろう。
タイムも、覚悟があったとは言え、最も親しい親友の『もしもの姿』に武器を向けた。
もしかしたら、迷いがあったのかもしれない。
それは、どうしようもないことだと、理解はできる。
「それで?」
そっと目を開き、セラフィムは尋ねる。
「あなたは、これをどうしたいのですか?」
僅かに目を瞠ったタイムは、けれど、すぐに元の困ったような表情に戻った。
「向こうの世界に、帰してあげられないかな、と思って」
「返す?」
セラフィムが問いかけると、タイムはこくりと頷いた。
「この子は昔からすごい寂しがり屋でしょ。だから、この子の仲間たちがいる世界に帰してあげたいんです」
手のひらの上の光に視線を落として、タイムが告げる。
その瞳には、とても優しい、慈しみの光が浮かんでいた。
「……しかし、その魂は既に破損しています。ここまで傷つき、小さくなってしまっていると、元の世界に返しても、輪廻には戻れず、消滅する可能性が高いですよ」
「だとしても」
タイムの青い瞳が、真っ直ぐにこちらに向けられる。
「たとえ消えてなくなるとしても、『みんな』のいるところで消えたいって、言うと思います。ルビーだから」
なんとなく、解るような気がした。
『昔』から、その性質故に仲間たちを率いる立場であった彼女だけれど、それ故に1人でいることを怖がっている様子があった。
だからきっと、知らない場所で1人で消えるよりも、仲間の存在がわかる場所で消えたいと、彼女なら願うだろう。
「それにきっと、本当に消えてなくなっちゃう前に、向こうのあたしがなんとかすると思うんです。きっとあたしのことだから、死んでもルビーのことを探してると思いますし」
タイムが苦笑しながら語る。
それはきっと本人の体験談だ。
異世界で、別の国に生まれた彼女は、それでも何かに引かれるように仲間たちのいる国に渡った。
それは、精霊たちの仕込んだ『ミルザとの盟約』に寄るものだったのかもしれないけれど。
おそらくきっと、彼女自身の魂も、ルビーの魂に引き寄せられたのだろう。
生まれる前から、彼女たちの絆は、それほどまでに強い。
セラフィムも、それは知っていた。
ただ一度のタイミングのずれ。
重要な場面で2人が揃っていなかっただけで、歴史が大きく変わってしまうほどに。
「……自覚無かったけど、あたしもあいつを支えるって立場に依存してるかもしれないですね」
気をつけないと危ないかな、なんて言いながら、タイムは困ったように笑った。
「わかりました」
セラフィムは、静かに頷いた。
タイムが差し出したままの光を、両手でそっと包む。
「私には平行世界を渡る力はありません。が、聖域の神々……ハデスの対であった存在であれば、扉を開けられるかもしれません」
「ハデスの対、ということは……」
タイムの問いかけに、セラフィムはにこりと笑みを返す。
「相談してみましょう。しかし、期待はしないでください。もしも駄目だったときは、この魂は輪廻を司る神々に託します。よろしいですね?」
「はい。お願いします」
一応念を押してから、タイムの手から、今にも消えそうな魂を受取った。
タイムも素直に自身の手から掬い上げられる魂を見送る。
「では、お預かりします。まあ、ルビーさんのことですから、私に身を預けるのは嫌かもしれませんけどね」
くすりと笑みを零すと、セラフィムはタイムに背を向けて歩き出す。
どのみち今夜は、経過報告のために神界に上がる予定だったのだ。
そのまま彼は、聖域に向かうため、神殿の奥へと歩を進めた。
セラフィムの背を見送って、ふうっとため息を吐く。
先ほどまで手の中にあった温かさ。
それが消えてしまったことに寂しさを感じながら踵を返すと、視界の端に入ったものに目を瞠った。
廊下の向こう、曲がり角から、長い赤い髪が去って行くのが見えた。
「あいつ……」
ふうっとため息を吐いて、それを追う。
角を曲がると、予想どおり、ルビーがいた。
座り込んで、膝を抱え、顔を膝に押しつけている。
「なーにやってるの?」
声をかけたら、彼女はおずおずと顔を上げた。
その頬が、少しだけ赤くなっているような気がした。
「……何、勝手に余計なことしてんの」
ぼそっと文句を言われる。
「余計なことって?」
わざと聞いてみれば、ふいっと視線を逸らされた。
「なんであんなの助けるのって言ってんの」
上目遣いに睨み付けてくる彼女が、なんだか可愛く見えてくる。
昼間の、もう1人の自分と必死に戦っていたときとは、別人のようだった。
「決まってるじゃん。あいつもあんたでしょ」
隣に腰を下ろしながらそう答えれば、また拗ねたように視線を逸らす。
それを見て、タイムはくすりと笑みを零した。
「あんたなら、あたしたちのところに帰りたいって言うに決まってるじゃない」
笑いながらそう言えば、ルビーは膝を抱えたまま、こちらをぎろりと睨み付けてきた。
「そのわかってます感、すんごいムカつくんだけど」
「どうそ勝手にムカついててください」
そう言ってやれば、今度は幼子のようにぷくっと頬を膨らませる。
本来の年齢では4つも年上のはずなのに、妙に幼い仕草に思わず笑ってしまう。
「ここ数日、そうやって余裕ぶってるのも気に食わないんですけど」
「あんたが珍しく弱ってるからね」
そう言い返せば、今度こそそっぽを向いてしまった。
ああ言えばこう言うと、ぶつぶつ文句を言っている。
「だいぶ元気が出てきたみたいでよかったわ」
肩をぽんっと軽く叩いてから立ち上がる。
その言葉に、ルビーは驚いたように顔を上げた。
「え……?」
「だいぶ堪えてたでしょ。もう1人のあんたのことも、レミアのことも」
ほんの少しだけ、ルビーの肩が震えた気がした。
「やーい。強がりー」
「そういう中学生みたいなのやめろ」
わざとからかうと、本気でぎろりと睨まれてしまった。
ごめんごめんと謝って、まだ座ったままのルビーに手を差し出す。
「戻って会えると良いよね、あっちのあたしたちも」
そう言えば、ルビーは少し間を置いて、小さくため息を吐く。
「そうだね」
そう言って差し出した手を取って、立ち上がった。
「まあ、あたしたちはそんなことをのんびり話してる場合じゃないけど」
そう言ってにやりと笑ってみせれば。
「今度こそ、狙ったものは確実に焼き尽くせるようにしないと」
ルビーが自身の手に視線を落として、呟いた。
次は失敗はできない。
次にこの呪文を使うときは、邪神と対面するときだから。
「じゃあいつまでも拗ねてないで、やりますか」
「拗ねて……っ、タイムのせいでしょ!」
からかうように言えば、ルビーがむっとした顔でこちらを睨んでくる。
その顔を見る限り、もう彼女は大丈夫だろう。
くすくすと笑って、神殿の外に向かう。
呪文の特訓を屋内でするわけにはいかないから、神殿の入口を出たところでやろうと話をしていたのだ。
まだ少し怒っている様子の親友を見て、思う。
自分は、約束を守れているのだろうか。
そう考えて、小さく首を振る。
守れているかじゃなくって、守ろうと。
そのために、共に強くなろうと、改めて思う。
この先ずっと、2人で肩を並べて歩いて行くのだから。