Side Story
たったひとつのボタンの掛け違い 前
それは本当に小さな小さな違い。
たったひとつ、掛け違ったボタンは、やがて大きな差を生み出し。
それは取り返しのつかない事態へ繋がっていく。
「姉さん!!前!!」
セレスの声に、ルビーははっと視線を目の前に戻す。
あのときラピスの岬で、リーフを狙った魔物に襲われたとき。
ペリドットに王都への転移呪文を準備するように叫んだそのときに、目の前に迫っていた魔物に気づかなかった。
とっさに右腕を上げて頭を守ろうとして、腕に衝撃が走った。
一瞬遅れて、燃えるような熱さと痛みに襲われる。
「しま……っ!?」
怯んでしまったその瞬間、反対側の脇腹に衝撃が走った。
足が地面から離れ、そのままぶわっと風を受けながら、体が宙に吹き飛ばされる。
気づいたときには、目の前に青が、海が広がっていた。
「姉さんっ!!」
「ルビーっ!!」
悲鳴のような声が聞こえた。
それが誰のものか認識するより早く、体は笑みに向かって落下を始めた。
「う、そ」
零れた声は、風に吹き消される。
そのまま、海面に強く体が打ち付けられて。
そこでルビーの意識はぶつりと途切れた。
このとき、ルビーを助けて崖から飛び降りようとしたタイムは、けれど、予想外の方向から飛び込んできた魔物に遮られ、間に合わなかった。
崖下を覗き込んだときには、既にルビーの姿は見当たらなくて。
ミスリルに腕を掴まれて、共に王都へ転移した。
これが最初の掛け違い。
ここから歴史は分かたれた。
ただ1人、サラマンダーとウンディーネに助けられ、封印の森の中心にある神殿に招かれたルビーは、伝えられた話を呆然と聞いていた。
この世界の創世記の歴史。
リーフという存在に隠された秘密と、ミルザという存在の真実。
そして。
『あなたに、未完成の精霊神法を完成させていただきたいのです』
精霊神からマリエスから、告げられた言葉。
『女神様たちの力を受け継ぐということは、その責も受け継ぐということ。力を受け継いだのであれば、あなたには人間界を離れていただくことになるでしょう』
「……つまり、子供を産んだら、人としての人生を捨てろということですね」
セラフィムと名乗る男から、あっさりと告げられたその残酷な言葉。
「さて、考えてください。女神の力を受け継げば、火精霊神法が完成し、破壊神を倒すことの出来る可能性が高くなります。ですが、引き換えにあなたは、家族や友人を捨てなければならなくなります。受け継がずにここを出れば、家族や友人と過ごす未来が待っています。しかし、破壊神を倒せる可能性は下がります。あいつは相当力を溜め込んでいるようですから、もしかしたら、勝てないかもしれませんね」
突きつけられたその選択。
周りに相談する相手もいない。
たった1人で、選ばなければならない。
「さあ、あなたはどうしますか?」
向けられたその瞳は、とても冷え切っていて、笑っていないように見えた。
本当はこのときわかっていた。
女神の力を受け継いで、精霊神法を完成させるべきだった。
けれど、選べなかった。
全てが終わったら、みんなと別れて、たった1人で神界に行く。
それが、どうしてか堪らなく怖くて、寂しくて。
想像するだけで、体が震えてしまって。
選ぶことができなかった。
これが最初に生じた小さな違い。
このとき、選ばなかったルビーは、この選択ができなかった理由を知らない。
選ばなかったために、二度とその理由を知ることもできない。
女神の力を継承して、精霊神法を完成させる。
その選択が、できなかった。
できなかったが故に、彼女が仲間の元に帰り、マリエスの導きで邪神の領域に足を踏み込んだとき、彼女たちは誰も純粋な神力を使うことができなかった。
純粋な神力を誓うことができなかった故に、ルビーがセラフィムからミルザの聖剣を託されることもなかった。
だからこそ、戦いは長引いた。
長引いて、そして。
彼女たちはなんとかハデスを倒したけれど、支払った代償もまた大きなものとなった。
「げは……っ、ぐ……っ」
ぼたぼたと何かが落ちる音がする。
左腕に感覚がない。
かろうじて短剣を握っていた右手にも、力が入らない。
「みん……な……」
か細い声で呼びかける。
けれど、返事はない。
セレスも、レミアも、ミスリルも、ペリドットも、ベリーも、妖精神を呼び出すためについてきていたはずのティーチャーも。
「タイ、ム……」
青色が見えた気がして、名前を呼ぶ。
けれど、やはり返事はなった。
右手で体を起こして、顔を上げる。
漸く見えた親友の姿に、息を呑んだ。
いつも隣にいた大切な友人は、仰向けで血だまりの中に倒れていた。
目を開いたまま、ぴくりとも動かない。
右手を伸ばそうとして、バランスを失った体がどしゃりと地に落ちる。
もう一度、左手で体を起こそうとして、気づいた。
腕が、ない。
ルビー自身も、左腕の、肩から先を失っていた。
さきほどのぼたぼたという音は、自分の腕から滴る血の音だったのだ。
「あ……」
ぐらりと視界が揺れる。
目の前が暗くなる。
体が起こせない。
みんなを探せない。
そして、誰の気配も、感じない。
ああ。
「どう、して」
どうして、こんなことに。
ぼんやりとした頭に浮かんだのは、きっと後悔だった。
あのとき、女神の力を受け継いでいたら。
火の精霊神法さえ完成させられていたら。
こんな結末にはならなかったんじゃないだろうか。
「こん、なの……」
意味が無いのに。
みんながいない世界なんて、望んでいなかった。
だから、あのとき、選択をしなかったはずだったのに。
今まで自分たちの、自分のやってきたことは、何だったのだろう。
絶望と後悔と、そんな想いに蝕まれ、このままその想いすらも消えていくのだと思った、そのときだった。
『哀れな結末だな』
耳障りなその声が、届いたのは。
「……は?」
消えかけていた意識が一気に引き戻される。
力の入らない腕で体を支え、顔を上げて、息を呑んだ。
「な、んで……」
そこにいたのは、先ほど、やっとの思いで倒したはずの、邪神だった。
最初に対面したときの、人間の男性の姿をしたそれは、こちらを無表情で見下ろしていた。
そんな馬鹿な。
だって、こいつはさっき、ちゃんと倒したはずだった。
断末魔を上げて、絶命したはずだったのに。
『人間に神が倒せるとでも思ったのか?』
無表情のまま、淡々と言葉が落とされる。
「それ、は……」
だって、それは精霊神が、あの道化のような男が言ったのだ。
ミルザは半神半人で、その子孫である自分たちも、神の血を引いているのだと。
『長きに渡り、人間の血を受け継いだ貴様らが?』
ハデスは笑いもせず、淡々と告げる。
『残念ながら貴様らは不完全だった。故に、この世界の「私」は、最期に私を呼び寄せた』
言われている言葉の意味が、理解できない。
ぐらぐらと視界が割れている。
ただでさえ光のない空間が、どんどん暗くなっていくような感覚。
何も言えずにいると、ハデスが再び言葉を落とした。
『平行世界、というものを知っているか?』
平行世界。
知っている。
それはこの世界、この時間軸とは別に存在する、別の可能性の世界のこと。
本来ならば決して交わることのない世界。
『この空間は時の止まった場所。故に、封印が解けている状態であれば、他の時間軸と繋がりやすい。「私」は最期に、私を呼んだのだ。魂が消える前に贄を求めて』
この世界のハデスが、このハデスを呼んだ。
その言葉だけが、ルビーの頭に染み渡っていく。
『しかし、残念ながらこの世界の贄の魂は、既に消えてしまっていた』
ハデスがそう言った途端、どさりと何かが落ちる音がした。
突然現れたそれに、目を向ける。
それを見た瞬間、ルビーは再び息を呑んだ。
ぴくりとも動かない、それ。
偶然なのか、顔がこちらに向けられていたため、それが人だと理解する。
そしてその顔は、自分のよく知る人物のものだった。
「……リーフ……?」
名を呼ぶ。
けれど、それはぴくりとも動かない。
目も口も薄らと開いているのに、返事をする様子もない。
『貴様らがここに入った少し後、この世界の私は贄を求めて魔物を放った。そして、1人脱落したところでこいつを仕留め、その魂を捕らえたようだが、どうやら引き寄せる前に私は力尽きたらしい』
どくんどくんと、心臓の音がうるさい。
吐き気がする。
気持ち、悪い。
『中途半端に解放された贄の魂は、輪廻に戻ることなく消え失せてしまった』
消えた。
リーフが、その魂が消えた。
彼は、彼も、もう何処にも居ない。
「みんな、は……、王都は……っ」
どくんどくんと心臓がうるさい。
リーフの傍には仲間たちがいたはずだ。
フェリア、アール、リーナ、ミューズ。
彼女たちは、どうしたというのだ。
『贄を守っていた者どもは、長くは持たないだろうな』
淡々としたハデスの言葉に、ずんっと何かに押し潰されるような感覚を感じた。
ハデスに向けていた顔が、がっくりと落ちる。
ああ。なら、本当に。
あたしは、今まで、何のために。
『取り戻したいか?』
ふと、その言葉が耳に届き、ルビーは再び顔を上げた。
『贄は無理だが、他の者であれば助けることができるぞ』
「え……?」
ハデスが口にしたのは、思いもよらない言葉だった。
『他の者の魂はまだこの空間にある。私がここに捕らえておけば、肉体を再生し、復活させることが可能だ』
「……ふっかつ……」
『ただし、私は私の世界で封印されているため、今はその力がない。この者たちを助けるには、私が封印から逃れる必要がある』
このハデスを、彼の世界のこの場所から解放することができれば、みんなが助かる。
失ってしまったものを、取り戻すことができる。
それはとてもとても甘い、砂糖菓子以上に甘い誘惑。
『ミルザの血を引く哀れな娘よ。お前の大切な者たちを取り戻したいのであれば、私の世界において「贄」を狩り、その魂を私に捧げよ』
ハデスがルビーに向かい、手を差し出す。
常の彼女であれば、その手を振り払っていただろう。
けれど、突きつけられた現実に、彼女の心は疲弊しきっていた。
それは、彼女自身も知らない、魂に刻まれた深い深い傷跡も影響していただろう。
既に命が尽きかけ、今、目の前の邪神の力で意識を保っている状態でもあった彼女には、その誘惑を拒絶できるほどの余力などあるはずもなく。
「あんたの世界のリーフを殺せば、他のみんなが、帰ってくる……」
自分のせいで死んでしまったみんなが。
自分が選択を誤ったせいで失われた仲間たちが、戻ってくる。
助けることができる。
それで恨まれたとしても、かまわないと思った。
また1人取り残されるくらいなら、嫌われても、ずっと幸せだと思った。
思って、しまった。
そして彼女は、邪神が差し出した手を取った。
尽きかけていた命の代わりに、邪神の差し出した仮初めの命を授けられ。
破損していた左腕は、彼の眷属であることがわかる証が刻まれ、再生された。
そして彼女は立ち上がり、改めて周囲を見回す。
先ほどは親友しか目にすることができなかった。
けれど、その場所には他にも、事切れた仲間たちが横たわっていた。
「ごめん……みんな……」
ぽつりと出た謝罪は、きっと無意識だった。
「絶対に、助けるから」
他の何を犠牲にしても、きっと取り戻す。
亡き仲間たちに向けた瞳には、かつて宿っていた希望の光など、何処にもなく。
ただ暗い暗い、濁った光を湛えたまま、彼女はこの場を立ち去る主に付き従う。
たったひとつの希望を拠り所にして、望まない道を歩き出す。
だから、だからこそ、憎かった。
自分と違う選択をした、自分が。
悠然とした態度で、自分を否定してくる、もう1人の自分が。
自分が失ったものを、守っている自分が。
「わかんない!理解できない!ドウシテ……ッ!!」
あたしには耐えられなかった。
みんなと別れることが。
ひとりぼっちになることが。
なのにどうして、この世界のあたしは、それを選んだの。
それを選べてしまったの。
わからないわからない理解できない。
がむしゃらに切りつけても、炎を放っても、どうしても押し負ける。
勝てない。
挙げ句の果てに、自分が手に入れることのできなかった、火の精霊神法で、魂すらも焼かれて。
それでも消えなかった。
憎かった。
自分が手に入れることのできなかった未来を持つ『自分』が、憎くて憎くてどうしようもなかった。
その瞬間、何かが焼けただれた自分の胸を貫いて。
真っ赤に染まった視界に映ったのは、青。
晴れ渡った空よりも、ずっと濃くて、澄み渡った青。
「ねえ『ルビー』。『あんた』は『憶えていない』と思うんだけど。あたし、大昔にあんたに言ったことがあったんだよね」
もう何も聞こえないはずの耳に届いたのは、懐かしい声。
「あんたを1人にしない。もしも1人にしちゃって、あんたが耐えられなくなったら……、そのときは、あたしがあんたを止める」
それに息を呑んだ瞬間、それまでとは比ではない衝撃が、自分の全てを襲った。
痛みも苦しも悲しみも、全てがぐちゃぐちゃになって、絶叫する。
その全てが水に飲み込まれ、押し潰され、消えていくその最期の瞬間。
「約束、守れなくって、ごめん」
小さな小さな言葉が、聞こえたような気がした。