Chapter7 吸血鬼
7:約束の証
理事長室から廊下に出る。
部屋の扉を閉めたところで、鈴美はふうっと息をついた。
反対側の壁に寄りかかって天井を仰ぐ。
そうして思い浮かべるのは先ほどまでのやり取り。
「漸く第一難関突破ってところ、ね……」
まさか、最初にして最大の難関であるそこに、あんな盛大な助け船が出るとは思わなかった。
反対はされないと思っていた。
反対するのはきっと百合だけで、ほかのみんなは困惑して自分たちを見つめるだけだと思っていた。
誰も口を出してこないだろうと思っていたのに。
まさか、あそこで赤美に助けられるとは思わなかった。
「いえ……、違うわね」
赤美は、少しは意見を言ってくれるのではないか、という予想はしていた。
けれどまさか、あんなにはっきりと自分を後押ししてくれるとは思わなかった。
きっと彼女は、他の仲間が気づかなくても自分の旅立ちたい理由に気づくだろうから、羨ましいと睨まれるとばかり思っていたけれど。
でも、よく考えれば彼女がそんなことをするわけがなかった。
日常生活の中の赤美はともかく、こういうときばかりは頭が回って、普段が嘘のように立ち回りがうまくなるのを忘れていた。
どれだけ今の自分が周りを見ていないのか気づいて、苦笑する。
これでは駄目だ。
もう少し心に余裕を持って、周りを見なければ。
そうしなければ、呪文書の『鍵』なんて形もわからないものを探せるとは思えない。
気分を入れ替えるつもりで、もう一度だけため息をつく。
そうしてから背中を壁から離し、歩き出したそのときだった。
「鈴ちゃん」
がちゃりと音がして、後ろから声をかけられる。
足を止めて振り返れば、今まさに理事長室から出てきた友人が、部屋の扉を閉めたところだった。
「紀美……ちゃん」
思わず理事長室の中にいるときと同じような口調になりかけて、慌てて直す。
それを見た紀美子は一瞬きょとんとした表情を浮かべたかと思うと、ぷっと小さく吹き出した。
「な、何?」
「みんなの前じゃないもの。無理しなくていいわよ」
「無理してたわけじゃないんだけど」
「呼び捨てにしそうになって何言ってるの」
くすくすと笑われて、思わず顔を背ける。
それを見て、紀美子がさらに笑みを零したところを見ると、自分の頬は赤くなっいるのだろう。
『みんな』とは、もちろん理事部のみんなのことではなく、クラスメイトのことだ。
『荒谷鈴美は、気の弱い、自分からは意見も言えない女の子』
他の生徒たちは、まだ鈴美にそんな印象を抱いている。
その自分の性格が、実はすっかり『ベリー』でいるときの性格と統一されていて、印象が全く変わっているとなれば驚かれるだろうし、何より面倒以外の何ものでもない。
そう思ったからこそ、鈴美は以前の自分を演じ続けていた。
仲間たちの中で、自分だけが覚醒の前後で性格が変わってしまったのは、何らかの自由で防衛本能が働いたからではないか。
そう仮説を立てたのは、確かリーナだったような気がする。
実沙も覚醒前と後でだいぶ印象が違うらしいが、彼女は演技だったのだと本人が言いふらしていた。
「それで、何の用?」
「あ、うん。えっと」
余計なことを考え出してしまった頭を切り替えようと、鈴美はわざと大きな息をついて紀美子を見た。
声をかけた途端、彼女はにこりと綺麗に微笑んだ。
「はい、これ」
「は?」
そう言って差し出されたのは、ペンダントだった。
とは言っても凝ったものではなく、薄紫の紐がアンティーク調のペンダントトップに結ばれているだけのシンプルなもの。
そのトップには、漆黒の石が嵌め込まれていた。
「ちょっと紀美。何これ?」
訝しげな表情を浮かべて尋ねれば、彼女はこてんと可愛らしく首を傾げた。
「お守り、かな」
「お守り?」
「そう。クールに見えて実は熱い親友へ送るお守り」
にっこりと微笑んだ彼女にそう言われ、鈴美は思わず言葉を失う。
「紀美……」
「ふふっ。間違ってないでしょう?」
なんだそれはと言わんばかりの目を向けて名を呼べば、あっさりとそんな言葉が返ってくる。
「間違ってるわ」
「ううん。そんなことない」
はっきりと否定しても、紀美子はあっさりと首を振った。
「きっとみんな……、姉さんや百合先輩もそう思ってると思う」
「……私のどこが」
「さっきの百合先輩とのやり取りとか」
先ほどのやり取りを思い出す。
確かに、自分にしては珍しく百合の言葉に反論をしようとしていた気はするが、そこまでとは思えなかった。
それよりも、途中から口を挟んできた人物の方が、よっぽど熱い。
「まさか。あなたのお姉さんじゃあるまいし、一緒にしないで」
「そうね。じゃあそういうことにしておくわ」
だから嫌みを込めてそう返したのに、彼女はあっさりとそう言って笑う。
普段無茶をする姉や実沙のことを諫めている彼女には、これくらいの嫌みは効かないらしかった。
「紀美……」
「鈴美」
だからもう一度、今度はまじめに反論しようとした途端、それまでとは全く違う雰囲気の声で名を呼ばれた。
思わず喉まで上がってきていた言葉を飲み込み、紀美子を見る。
紀美子の、ほんの少し別の色が混じった黒い瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「本当に気をつけて。何をしにいくのかは聞かないけど、1人で無理だと思ったら帰ってきてね」
手にしたペンダントをぎゅっと握り締めて告げる彼女に、鈴美は思わず目を見張る。
けれどすぐに我に返ると、ふうっとため息をついた。
「やけに心配性ね?」
「……うん」
尋ねた途端、紀美子は視線を床へと落とした。
ペンダントを握っていた手が、ほんの少し下へと下がる。
「どうしかした?」
「……姉さんが」
ぽつりと、呟かれた言葉に、鈴美は思わず目を細めた。
「姉さんが、不穏なことを呟いてたから」
「赤美……先輩が?」
静かに聞き返せば、紀美子はこくりと頷いた。
その口が、話そうかどうしようか迷っていると言わんばかりに開いては閉じるを繰り返す。
少しして漸く意を決したのか、彼女はゆっくりと口を開いた。
「嫌な予感がする、って」
その言葉に、鈴美は目を丸くした。
そして、はあっと少し大げさにため息を吐き出す。
「なんかそれ、いつものことじゃない?」
「うん。それでだいたいいつも当たってるの」
「あ……」
紀美子のその言葉に、鈴美ははっと息を呑む。
そうだ。
彼女はここ暫く、何かあるたびにその言葉を口にしていた。
そして、事態はその言葉どおり悪い方向へと進んでしまっていた。
まるで、彼女の勘が当たっていると言わんばかりに。
「だから鈴美。無理はしないで。私たち、いつだって待ってるから」
そう言って、紀美子が再びペンダントを差し出す。
少し躊躇してから、鈴美はそれを受け取った。
「……わかってるわ」
礼は言わずに、ふいっと顔を逸らす。
それに紀美子は怒ることもなく微笑むと、ふうっと息を吐き出す。
再び顔を上げたとき、彼女はいつもの表情に戻っていた。
おそらく、こちらにこれ以上不安を与えないようにと言う配慮だろう。
彼女のことだ。
自分の憶測で鈴美に不安を与えてしまったことを申し訳ないとさえ思っているに違いない。
だから、無理にでもいつものように振る舞おうとしていた。
「もう行くの?」
「ええ。少しでも時間を無駄にしたくないから」
「どこに行くのか、聞いちゃだめ?」
その問いに、鈴美は視線だけを紀美子へと戻す。
目が合った途端、彼女は申し訳なさそうに苦笑した。
またこちらが気分を害したとでも思ったのだろうか。
そんなつもりなどなかった鈴美は、小さく息を吐き出してから口を開いた。
「特定の国に行くわけじゃないから断言はできないけど、最初はマジック共和国に行くつもり」
「アールさんたちのところ?」
「そう。美青先輩の助言を頼ってみるつもり」
「高速船の話ね」
「ええ」
先ほど、美青が話してくれたあの話。
それが実現すれば、移動時間を少しでも短縮できると思う。
そう思ってそう決めたのだけれど、鈴美が世界中を回るつもりでいるということなど知らない紀美子は、不安そうに尋ねる。
「そんなに遠くに行くの?」
「遠くというより……、そうね。多く、かしらね」
「多く?」
「とにかく、行ってくるわ。心配しないで待っていて」
薄く笑顔を浮かべてそう告げれば、紀美子は少し迷ったように視線を泳がせる。
けれど、それはそれほど長い時間ではなかった。
その瞳が一度閉じられる。
それが再び開かれたとき、彼女は真っ直ぐにこちらを見て頷いた。
「うん、わかった」
はっきりとそう答えてくれた親友に、鈴美はほっと笑顔を浮かべる。
ついてくると言い出したらどうしようかと思った。
こんな、いつ終わるかもわからない旅に、彼女まで巻き込むなんてことをできるはずなんてない。
その懸念が消え、安堵した鈴美の脳裏に、ふと寮の自分の部屋が浮かんだ。
「ああ、そうだ」
その途端、ひとつ重要なことを思いついて、制服のポケットを探る。
その姿を見て、紀美子は不思議そうに首を傾げた。
「鈴ちゃん?」
「はい、これ」
すっと手を差し出せば、紀美子は反射的に手を出す。
その手のひらの上に、持っていたものをぽとりと落とした。
「何?」
「私の部屋の鍵よ」
紀美子の手の上に乗せたのは、確かに彼女自身のものと同じデザインの鍵だった。
それを見て、紀美子は訳が分からないと言わんばかりの目を向けてくる。
その表情に内心で苦笑しながら、鈴美は再び口を開いた。
「暫く家を空けるから、冷蔵庫から食べ物持って行っていいわ」
「えっ!?」
驚きのあまり紀美子が声を上げる。
当然だろう。
親のいない自分たちは、学校からの補助金――正確には雨石家の援助と雨石家が管理をしてくれていた自分の親が残してくれた貯金で暮らしている。
それをやりくりした食料を、分けるというのならともかく、全てあげると言い出すなんて、家計管理をきっちりとしている紀美子なら驚くに決まっている。
「ぎりぎりまで帰ってこないと、全部消費期限過ぎてしまうしね。今日整理しておくから、あとで取りに来て」
実際に、突然向こうに行くことになった友人たちは、帰ってきたときに冷蔵庫が悲惨な状態になっていたと言っていたから。
鈴美は、それを回避したいだけだった。
「でも……」
「その代わり、帰ってきたら少し分けてもらうから」
それでも渋る紀美子に、交換条件を出す。
それで漸く、彼女は納得してくれたらしい。
「……うん、わかった」
渋々でも了承してくれた彼女に向かい、微笑む。
これで懸念は消えた。
残る心配は、ない。
だから、鈴美がそれ以上、そこに留まる理由はなかった。
「よろしくね」
「うん。行ってらっしゃい」
戸惑いを隠して微笑もうとする紀美子に微笑みを返し、鈴美は彼女に背を向ける。
そのまま歩き出せば、もう紀美子が自分に声をかけることはない。
鈴美はそのまま、迷わずに高等部の昇降口に向かって歩き出した。