Chapter7 吸血鬼
38:終戦
ぽたぽたと、何かがこぼれ落ちるような音が辺りに広がる。
ベリーの右拳が、ラウドの胸に当てられていた。
そこから刃のように伸びていた紫の光は、拳の当たる胸の先に吸い込まれている。
比喩でもなく出もなく、実体を持った紫の刃は、ラウドの胸に深々と刺さり、背中側へと抜けていた。
ごぽりと、ラウドの口から血が零れる。
その赤が、ベリーの黄色い服を汚した。
『お、おい』
唐突にダークネスの声が頭に響いた。
『そろそろ離れ……』
「心配しなくても、だいじょうぶ、ですよ」
唐突に、目の前の男が言葉を口にした。
「もう、なにもできません、から」
荒い息に混じったその微かな声は、もうこの距離ですら辛うじて聞こえる程度だ。
『信じられるか』
「ほんと、です。この腕じゃ、なにも……ね」
どんっと肩に重みと痛みを感じて、視線だけを動かす。
あらぬ方向に曲がったラウドの腕が、ベリーの肩に乗っていた。
ほんの少しだけ、気を緩める。
その瞬間、ラウドを貫いていた紫の刃が溶けるように消えた。
魔力の刃で支えられていた体が、その場にどさりと倒れ込む。
倒れるラウドを避けるように一歩後ろへ下がったベリーは、そのままラウドを見下ろした。
顔だけを横向きに、俯せに倒れた彼の目が、こちらを見る。
まだ拳に宿っているダークネスが身構えたようだったけれど、ベリーはもう構えるつもりはなかった。
「ラウド様っ!!」
エイヴァラルの悲痛な叫びが辺りに響く。
レミアに阻まれてこちらに来ることができずにいる彼は、倒れた主の名をずっと叫び続けていた。
「……何か、伝えたいことはある?」
『お、おい!』
どうしてそんな問いかけをしたのかはわからない。
けれど、頭の中に響くダークネスの声を無視して、ベリーはただラウドを見下ろし、尋ねていた。
その言葉に、ラウドの目が、ほんの少しではあったけれど、驚いたように見開かれる。
そして、ほんの少しだけその口元が、笑みを浮かべた。
「情けをかけられる覚えは、ありませんよ」
息を吐き出すようにその言葉を言ったかと思うと、ラウドはもぞりと動いた。
そのまま残った腕を身体を支える位置に動かし、起き上がるかのように力を入れる。
『おい!ベリー!!』
ダークネスが焦ったような声を上げた。
けれど、ベリーはもう動こうとしない。
ゆっくりと起き上がろうとする彼を、ただじっと見ていた。
肘から先は力を入れることができないだろうその腕で起き上がり、立ち上がった彼は、ゆっくりと視線をレミアたちの方へと向ける。
「エイヴァラル」
先ほどまでよりも、少し低い声。
レミアへの攻撃をやめ、呆然とこちらを見ていたエイヴァラルは、己の名を呼ぶその声を耳にしてびくりと身体を震わせた。
「一度教えたな。行け」
「し、しかし……」
「行け」
言い返そうとしたエイヴァラルを、ラウドは視線とその一言だけで黙らせる。
迷った様子の彼は、最後の一撃とばかりにレミアに向かって爪を振り下ろすと、そのまま体を反転させ、駆け出した。
「待てっ!!」
咄嗟に剣でそれを防いだレミアが、そのままエイヴァラルを追いかけようとする。
しかし、エイヴァラルは木の陰に飛び込んだかと思うと、そのまま姿を消した。
入れ替わりに、その木の陰から蝙蝠が飛び立っていく。
「あいつ……っ!!」
「レミアさん待って!!」
それでも追いかけようとしたレミアを、セレスが止めた。
「空を飛ばれたら無理です!」
「そうだけど……っ!でもこのままってわけには……っ!!」
『俺が行く!』
唐突に辺りに青年の声が響いた。
ベリーの拳を包んでいた光が消える。
その光は空中に移動したかと思うと、黒い獣の姿を形取った。
ベリーの意思ではなく、ダークネスの方から精霊拳を解いたのだ。
「ダークネス様!」
『お前ら、そいつを逃がすなよ!』
黒い獣は、そのまま宙を蹴って飛び去った蝙蝠を追いかけていく。
その姿を呆然と見つめていると、側で何かが倒れる音が聞こえた。
視線を戻せば、先ほどまで立ち上がっていたラウドが、再びそこに、仰向けに倒れている。
どうやら、今度こそ力を使い果たしたようだった。
「ベリー、近づきすぎじゃあ……」
「いえ。きっともう大丈夫です」
剣を握ったままのレミアに、セレスが首を静かに横に振って答える。
「あの位置の傷は、人間なら致命傷です。あの人が魔族じゃなかったら、きっとさっき立ち上がることだってできなかったと思います」
たぶん、彼女の言うとおりなのだろう。
ベリーの足下には、ラウドの胸と腕からの元と思われる血が、既にいっぱいに広がっていた。
その赤が青いチャイナシューズを汚すのも気にせずに、ベリーはその場でただラウドを見下ろす。
ラウドの、もうほとんど見えていないのか、焦点の合わなくなっている目が、ゆっくりとベリーの方へ向いた。
「哀れみか……」
「さあね」
自分でも何を思ってここに立っているのかわからない。
それはベリーの正直な気持ちだった。
それを顔に出さないように注意をしながら、口を開く。
「あなたがどうしてここにいたのか、まだ聞いていないわ」
「教える義理は、ない」
かろうじて聞こえる程度の掠れた声で、答えが返ってくる。
「私の役目は、エイヴァ、ラル、に」
「あなたの役目?」
尋ね返したが、もう返事は返ってこなかった。
胸が上下している様子もなければ、微かに越えていた呼吸の音も聞こえない。
ラウドは、言葉の途中で絶命していた。
今度こそ、確かに。
そう、あのときのように。
「ベリー?」
耳にセレスの声が届く。
その声で、ベリーは我に返った。
「ベリー?大丈夫?」
いつの間にか側に来ていた彼女が、自分の顔を覗き込んでいた。
「……ええ」
答えながら、否定に手を当てる。
今、一瞬何かを考えた気がした。
この光景を見たことがあったかのような気がした。
どうして自分は、そんな風に思ったのだろう。
以前アースで戦ったときは、彼は異空間に飲み込まれ、こんな風に亡骸を残すことなどなかったのに。
「本当に大丈夫?」
もう一度セレスに声をかけられて、漸く、本当に我に返る。
軽く頭を振って頷くと、ベリーはセレスの目を見ずに答えた。
「ごめんなさい。何も聞き出せなかった」
「あなたが無事なら、それでいいと思うわ」
別の声がかけられ、顔を上げる。
そこには、剣を腰の鞘に収めたレミアがいた。
視線が合うと、彼女はその顔に薄く笑みを浮かべて肩を竦めた。
「ルビーは怒りそうだけど」
「少しだけです。姉さんだって、ベリーのことずいぶん心配してたんだから」
セレスの言葉を、レミアは否定しなかった。
ベリーも、それは嘘ではないと思っている。
最近はずっと何かの情報を探していて、どうしてもそれを優先していたルビーだけれど、それ以上に仲間想いだと知っているから。
表面上は怒っても、焦っても、きっと許してくれるのだろうと思う。
そんなことを考えていると、不意に街の方から声が聞こえた。
とても大勢のそれは、歓声のようだった。
「何?」
「片付いたんじゃない?」
思わず疑問が口に出る。
その疑問にあっさりと答えたのは、レミアだった。
「片付いたって……」
「他の門よ」
他の門という言葉に思い出す。
そういえば、その城壁の中の町は、ゾンビのような吸血鬼たちに攻められていたはずだ。
勢いよく正門の方へ顔を向ける。
でもそこには、もう吸血鬼たちの姿はなかった。
立っているのは、見知った髪の色と服装の少女たち。
その足下に転がるものはあれど、立ち上がっている吸血鬼たちは、もう1人もいなかった。
つまり、レミアとセレスとともにここへやってきた仲間たちが、門の前の吸血鬼たちと戦い、退けたのだ。
「あそこには姉さんたちがいたし、他はリーフさんが、ミューズさんと合流して指揮を執ってたはずだから」
「そう……」
つまりは、これで終わったのだ。
たった3人で始めた攻防戦は、仲間たちが助けに来てくれたおかげで、終わったのだ。
「おーい!ベリーちゃーん!!」
気が抜けて、思わず膝が折れそうになったとき、聞こえてき自分の名にベリーはその声をする方向を見た。
「ベリーちゃん無事ー!?」
「まあ、何とか」
「よかったー!」
駆け寄ってきた若草色の髪の少女が、そのままベリーに飛びついてくる。
思わず倒れそうになったのを何とか踏ん張って耐えると、そのままぎゅうぎゅうと締め付けられるように抱き締められた。
「ちょっとペリート。苦しいんだけど」
「ちょっとくらい苦しくったっていいじゃん!」
「いや、傷が痛いからやめ……」
抗議をしようとしたそのとき、突然ずばんという物凄い音が辺りに響いた。
「ひぎゃあああ!!」
一瞬遅れてベリドットが飛び上がって叫ぶ。
そのままずるずると地面に沈むペリドットの向こう側に、鞭を握ったよく見知った人物が現れた。
「怪我人に何してるの」
「ミスリルちゃん……鞭は……はん、そく……」
完全に地面に突っ伏し、ぷるぷると震えてながらペリドットが抗議の声を上げる。
そんなもの聞こえないとばかりの顔で鞭を手早く纏めると、ミスリルはこちらを見て口を開いた。
「久しぶりね、ベリー」
「ええ。ごめんなさい。約束の期限を過ぎてしまって」
こちらに来る前に、彼女とした約束。
それがこちらの時間ではいつだったのか、既にずいぶん曖昧になってしまっている。
けれど、確実に過ぎているだろうと思ったから、ベリーは素直に頭を下げた。
それを見たミスリルが、ふうっと小さなため息を吐き出した。
「状況が状況だっただろうし、仕方ないわ。まあ、追試まではどうにもできないから、がんばって受けてちょうだい」
「追試?」
聞くとは思っていなかった言葉に驚いて顔を上げる。
「もう夏休みだからねー、あたしたち」
復活したらしいペリドットが、ミスリルの代わりに答え、軽く笑った。
そんなにも時間が経っていたのかと、ベリーは素直に驚く。
休学の許可を取ってこちらにやってきたときは、まだ1学期が始まったばかりだったというのに。
「セレス!」
驚いているベリーの耳に、別の聞き慣れた声が飛び込んできた。
見れば、正門の方でフェリアがこちらに向かって手を振ってきた。
「はーい!」
「アールが倒れた!ちょっと見てくれ!!」
「えっ!?」
彼女の言葉に、セレスが驚いて息を呑む。
「アールが?」
「わかりました!!」
そのまま走り出していく彼女の姿を見て追いかけようとしたそのとき。
「単なる過労だよ。魔力を使いすぎたんだろうね」
彼女と入れ違うようにこちらにやってきた人物の言葉に、ベリーは思わず足を止めた。
頭の後ろで結い上げた赤い長い髪を揺らしながらこちらに歩いてくる女性。
その足取りが、ずいぶんとゆっくりしていることから、アールの容態もきっと大事ではないのだろう。
「やっほルビーちゃん。タイムちゃんは?」
「ティーチャーが来たんで、2人で兵士の治療に行ったよ」
にこにこと笑ったペリドットが話しかけると、やってきたルビーは肩を竦めるような仕草で答えた。
その赤い瞳が、不意にこちらに向く。
「お疲れ」
「……ええ」
その顔が、薄くではあったけれど笑っているのを見た途端、体から力が抜けた。
「ちょっ!?ベリーちゃん!?」
ぐらりと傾いた体を誰かに受け止められる。
すぐ側でペリドットの声がしたから、きっと彼女だったのだろう。
「ごめんなさい。大丈夫……」
「じゃあないでしょ。まったく」
目の前から呆れたような声が聞こえて、溜息を吐いたような気配がした。
少しだけ顔を上げると、目の前に広がったのは鮮やかな赤色。
「詳しい話はリーナやミューズから聞いとくから、とりあえず寝ちゃいな」
顔を覗き込んできたのは、ルビーだった。
「でも……」
「ペリート。オーブをベッドにできる?」
「堅いよー」
「いいからやる」
「はいはーい」
こちらの言い分など聞こうとせずに、力の入らない体を支え、ペリドットに指示を出す。
1人分の体温が離れていったかと思うと、視界の墨に板状の水晶が出現したのが見えた。
「というわけでベリーちゃん。寝ないと強制的に寝かしつけちゃうよー?」
宙に浮いたその板をばんばんと叩きながら、ペリドットがにやりと笑う。
たぶん、拒否すれば本当に実行するだろうと思った。
「……わかったわ」
だから観念して、素直に横になる。
本当は、体はとても疲れていた。
そういえば、あの正門を出てからどれくらいの時間が経っているのだろう。
それすら、わからないくらいに。
ルビーに促されるまま、低い位置に降ろされた水晶に座り、そのままその上に横になる。
「じゃあ、ごめんなさい。あとは……」
「はいはい。任されてあげるよ」
横になったことで、一気に疲れが溢れたのか。
投げやり気味なルビーの言葉に返事を返すこともしないうちに、意識は一気に眠りの淵に吸い込まれていった。