Chapter7 吸血鬼
26:閉ざされた扉
プリンタから出てきた書類を掴み上げる。
ぱらぱらっと捲って印刷ミスがないか確認すると、それをホッチキスで閉じてテーブルの上に投げた。
それを拾い上げた百合が目を通し、承認の印を押したのを見て、赤美は漸く息を吐き出した。
「これで一段落だね」
その一言で周囲の緊張も解ける。
今赤美が作っていた書類が、現在行っている仕事の最後の書類だった。
「今年の、なんだかすごく大変になってない?」
「何言ってるの。これでもずいぶん楽なのよ」
塗れタオルを額に乗せ、思い切りソファに寄りかかって尋ねた沙織を、百合がぎろりと睨みつけた。
「去年はこれを私と紀美ちゃんと鈴ちゃんの3人でやってたんだからね」
「そ、そうでした……」
去年は百合と紀美子、鈴美の3人だけを残して、みんなインシングへ行ってしまっていたから。
「俺、忘れられてないか?」
「気のせいですよ、先輩」
ぼそりと呟いた陽一に向かい、紀美子が笑顔で返している。
ああ、そういえばこいつもいたかと、赤美は少しぼんやりした頭で考えていた。
「もう8月か……」
不意に、誰かが呟いた言葉が耳に入る。
カレンダーを見れば、そこには確かに8という数字が書いてあった。
制服を着て理事長室などにいるけれど、今はれっきとした夏休みなのだ。
「そろそろ鈴ちゃんが向こうに行ってから4か月だねぇ」
「あの頃は新学期になったばっかりって思ってたのに、もう夏休みだもんねぇ」
実沙の呟きに、沙織が思わずため息を吐く。
鈴美がインシングへ旅立ってから、戻ってきたことは一度もない。
つまり、彼女は一学期をまるまる休校していることになる。
出席日数としてはぎりぎり。
中間と期末の試験は戻り次第受けることになっていた。
百合が教師たちと交渉した結果、そこで一定以上の点数を取らないと留年が決まってしまうことになっている。
本人はその事実を知らないけれど、きっと大丈夫だろうと考えて、その条件を飲んだ。
強制退学よりマシだろうと判断しての決定だったのだが、勝手に決めたことに関しては、後で謝らなければならないだろう。
「怪我とか、してないといいけど」
ぽつりとそう呟いたのは紀美子だった。
その言葉に、赤美はほんの少しだけ目を細める。
たぶん、そう願っているのはここにいる全員が同じだった。
みんなも、もちろん自分も、口には出さなかったけれど。
「さぁーてと」
ソファに座ったまま、天井に腕を伸ばして伸びをする。
そのまま、反動をつけて勢いよく立ち上がった。
それの姿を見た陽一が首を傾げる。
「赤美?何処か行くのか?」
「やることやったし、夏休みなんだし、あたしも向こう行ってくるわ」
そう言った途端、向かい側に座る百合がぎろりとこちらを睨んでくる。
「赤美」
「何?別にいいでしょ?ここひと月はずっとここに缶詰だったんだし」
期末試験の勉強をしながら、百合の仕事を手伝ったのだ。
生徒会の事務部門も兼ねているような状態になっているのが今の理事部であるから、仕方ないとは思っている。
けれど、それも全部終わったのだから、文句を言われる筋合いはない。
そう思って睨み返した百合から返ってきたのは、予想に反した言葉だった。
「別に反対はしていないわよ」
「じゃあ、何?」
文句言われる以外に何があるのかと、思わず眉間に皺を寄せて聞き返す。
そうすれば、百合は一度目を閉じて、呆れたように息を吐き出した。
「鈴ちゃんに会ったら、早く戻ってくるように伝えて」
そのまま言われたから、一瞬何を言われたのかわからなかった。
少しだけ遅れて、その言葉を飲み込む。
そして、ほんの少しだけ呆れた。
「あー、はいはい。わかったわかった」
最初から素直にそう言えばいいのに。
どうしてこの子は、自分に対していつもこんな態度なのか。
そんなことを考えながら生返事をすると、赤美は理事長室から扉続きになっている資料室へと足を向けた。
資料室の扉が軽い音を立てて閉じる。
それを見た美青は、データを整理していた手を止めた。
開いたままだったファイルを保存して、ノートパソコンを閉じる。
「さて、あたしも行ってこようかな」
「え?美青ちゃんも?」
そう呟いた途端、傍にいた実沙が驚いたように目を丸くした。
「ティーチャーに暫く会えなかったから、顔くらい見せてこないとね」
「あー……。俺もそろそろ一度向こうに帰らないとなぁ。ミューズに怒られる」
並べてあった湯呑みの回収に取りかかっていた陽一が、何かを思い出したように顔を歪めた。
そういえば、急ぎの資料を作り始めてから、彼もずっとここに缶詰だったような気がする。
「私たちも、そろそろ一度仕事をしに行かないとな」
「そうねぇ。ずっと行ってなかったから、ずいぶんと仕事してないもんね」
英里と沙織までそんなことを言い出したのだから、百合がため息を吐くのは仕方ないのだろう。
「あんたたち、ほどほどにしなさいよ?」
「大丈夫。すぐ帰ってくるよ」
苦笑してそう答えれば、恨めしそうに睨まれる。
たぶんティーチャーにもそんな顔をされるんだろうなぁと、ぼんやりと考えたそのときだった。
「紀美!」
ばんっと扉を壊れんばかりの勢いで開け放って、『時の封印』を解いた赤美――ルビーが資料室から飛び出してくる。
その慌てた様子に、呼ばれた本人である紀美子が不思議そうに首を傾げた。
「姉さん?どうしたの?忘れ物」
「ゲート開いて!」
「え?」
一瞬、紀美子は何を言われたのかわからないと言わんばかりの表情を浮かべた。
それを見た美青はため息を吐く。
「あんたねぇ。それくらいは自分で……」
「いいから!」
美青の言葉を遮って、ルビーは紀美子に向かって叫ぶ。
「う、うん」
その姉の勢いに押され、紀美子は困惑した表情のまま頷いた。
「実沙!鍵!」
「え?あっ、うん!」
ルビーに言われ、実沙は席を立つ。
飛びつくように理事長室の入り口のドアノブを握り、そのすぐ下についている鍵をかけた。
「閉めたよ」
実沙が振り返って声をかけると、紀美子はこくりと頷いた。
「時の封印よ」
右手の中指に嵌めていた黄色い指輪を宙にかざす。
そこから光が溢れたかと思うと、彼女の姿は変わっていた。
髪は長さは変わらないものの、黒から黄色へと変化する。
瞳も髪と同じ色となり、服装も異世界の物へと変わっていた。
指に嵌めた指輪は、光が収まる頃には消え去り、代わりに右手の中に黄色い水晶球のついた長い杖が収まっている。
姿を変えた紀美子――セレスは、その手にした杖を空中に翳す。
「……え?」
その途端、信じられないとばかりにその目を見開いた。
「セレス?」
「ちょ、ちょっと待って」
陽一に名を呼ばれ、彼女は慌てて目を閉じる。
もう一度、今度は深呼吸をして杖を翳すと、ゆっくりとその唇で言葉を紡いだ。
「精霊よ。今ここに、世界を越える力を我に与えよ。異界の扉よ。我らが前に姿を現わし、我らを異界の地へ誘わん」
杖の先端についた球に、光が薄っすらと集まっていく。
それが十分に集まるのを待って、セレスはそれを頭上に高く掲げた。
「ゲートっ!」
言葉とともに魔力を解放する。
そうすれば、異世界へと続く次元の扉が目の前に現れる、はずだった。
「え……?」
けれど、その光は扉を出現させることなく、四方に散って消えていく。
「魔力が、拡散した……?」
呟いたのは誰だっただろう。
けれど、その言葉の通りだった。
魔力は呪文を発動させず、光の塵になって虚空に消えた。
こんなことは、今まで一度としてなかったことだ。
「実沙っ!」
「は、はひっ!」
突然ルビーに、それも強い口調で名前を呼ばれ、実沙は思わずぴんっと背筋を伸ばす。
「あんたもやって!」
「は、はう!」
ものすごい剣幕の彼女の、ほとんど命令に近いそれに、実沙は反射的に答えていた。
腕輪を翳して本来の姿へ戻ると、そのまま水晶球に変化したそれを空中に浮かべ、それに向かって手を翳す。
「精霊よ。今ここに、世界を越える力を我に与えよ。異界の扉よ。我らが前に姿を現わし、我らを異界の地へ誘わん」
セレスが口にしたものと全く同じ呪文。
それを唱え、意識を集中して、空間に放つ。
「ゲートぉっ!」
けれど、それも同じだった。
放たれた光は形を成さずに、セレスの時と同じように空間へ散って消えていく。
「……嘘」
それを見て、実沙――ペリドットは呆然と呟く。
周囲の仲間たちも、信じられないと言わんばかりの目でその場所を見つめていた。
「お、おいペリート、ふざけてるんじゃないだろうな?」
「まじめにやってるよ!」
「だよな……。お前はともかく、セレスがふざけるわけないし」
「ちょっとぉ!何その言い方ぁっ!」
あまりにも理不尽な陽一の言い方に、ペリドットが思わず文句をぶつける。
普段ならセレスがそれを止めるのだけれど、今の彼女は呆然と自分のを見つめているだけだった。
「どういう、こと?」
美青の口から、その言葉が思わず出る。
「どういうことも何も、見たとおりだよ」
それに答えたのは、ルビーだった。
両の拳を白くなるほど強く握りしめ、ペリドットがゲートを開こうとした場所を見つめたまま、彼女は先ほどまでの慌てた様子が嘘のような静かな口調で告げた。
「ゲートが、開かなくなってる」
わかりきっていた、けれど認識したくなかった事実。
ルビーの口からはっきりと告げられ、それが漸く頭の中に入ってくる。
「つまり、インシングに帰れないということか?」
英里の問いが、それを余計に頭の中に染み渡された。
「まさか、向こうで何かあったの?」
百合の言葉に、美青ははっと顔を上げる。
こちら側では何も起こっていない以上、インシング側で何かがあったとしか思えない。
そして、次元の扉が開けなくなるほどのレベルで何かが起こっているということは。
「ベリー……」
1人でインシングへ行っている友人の名を、誰かが呟いた。
ここまでの事態が起こっているならば、きっと彼女が関わっている。
もしくは、巻き込まれている。
その場にいる誰もが、それを確信していた。