Chapter7 吸血鬼
14:和の国
ほんの少しだけ、空気が揺れた気がした。
はっと崖を振り返る。
石板だったと思われる場所の前、先ほどベリーが消えた場所に、再び黒い魔法陣が現れていた。
紫色の光を発するその上の景色が歪んだかと思うと、その上に人影が現れた。
現れたその少女の足が、魔法陣につく。
それを待っていたかのように光が納まり、少女はゆっくりと目を開けた。
「ベリー様」
リーナが声をかければ、紫紺の瞳ははっきりとした光を持ち、こちらへと向けられる。
目が合った瞬間、彼女はにこりと微笑んだ。
「ただいま」
その声を聞いて、アールは漸く安心したように息を吐き出した。
「おかえり」
「どうでしたの?」
「見つけたわよ。ほら」
リーナに問われ、ベリーは手を差し出す。
その手に中には、何かが握られていた。
開かれた途端、銀のチェーンが零れ落ちたそれは、剣の形をしたペンダントだった。
「これが、ここの鍵なのか?」
「ええ」
「なんだか、レミア様の剣に似ていますわね」
「そうね。私もびっくりした」
ペンダントトップのデザインは、レミアの手にした剣と同じデザインだった。
あの場所から拾い上げたとき、ベリーもこれを見て驚いた。
もっとも、あの剣はエルザとの戦いの際に元々ミルザが持っていた剣と同じ形に変化したという話であるし、この鍵を用意したのもミルザであるということだったから、その剣をモデルにしていたとしても不思議はないのだろう。
「それで、次の手がかりも使ったのか?」
「ええ。どうやら、今度こそ高速艇を借りることになるみたい」
手にしたペンダントをぎゅっと握り込み、一度目を閉じる。
再び目を開くと、紫紺の瞳が真っ直ぐにアールを見つめた。
「次の目的地は、和国よ」
その声に、口にされた名前に、リーナがびくりと肩を震わせる。
「和国……ですか」
「ええ。何か問題でも?」
問いかければ、リーナは困惑したような表情を義姉へと向ける。
一瞬彼女を見たアールは、すぐにベリーの方へ顔を戻すと小さく息を吐き出した。
「あの国は文化も独自だからな。貿易もあまりないし、入国できるかどうか……」
「それでも、行かないといけないの」
一応ベリーにも、あの国がこの世界では特殊だという認識は、ある。
例えるならアースの、昔の日本、だろうか。
それでも行かなければならない。
ミルザの幻影が示したのは、あの国だから。
「お願い、アール」
ベリーが真っ直ぐにアールを見つめ、頼み込む。
「お姉様……」
その彼女を見たリーナが、不安そうにアールを見上げた。
2人の視線を受けたアールは、静かに目を閉じる。
アール個人としては、本当はあの国に関わりたくなかった。
外交上逃げられない場合は割り切っているけれど、それ以外では近づきたいとも思わない。
それは、自分があの国の魔術を会得した経緯にあった。
けれど、と考えて、もう一度ベリーを見る。
その紫紺の瞳は、真っ直ぐに自分を見つめ、返事を待っていた。
その視線を受けて、アールは気づかれないように拳を握り締めた。
「わかった。何とかしよう」
はっきりと答えたその言葉に驚き、リーナは目を見開いてアールを見た。
「なんとか、できるのですか?」
「するしかないだろう」
リーナの問いに、アールは答える。
その目が、リーナの明るい桃色のそれを射抜くような鋭い視線で見返した。
「もう少しだけ付き合ってもらうぞ、リーナ」
強い光を宿したその目が、一瞬揺れたような気がした。
その奥に隠された感情を正確に読み取り、リーナはきゅっと唇を噛み締める。
「……はい」
それでもはっきりとそう答えたのは、アールがその言葉を撤回するつもりはないのだと知っていたからだった。
迷うことのないにその答えに、アールは嬉しそうな困ったような、複雑な表情で微笑んだ。
リーナの転移呪文でマジック共和国に戻り、そのまま港へと向かう。
すぐに出向できるようにと高速艇に待機させておいた船員に指示をし、休む間も取らずに出向した。
さすが魔法技術の最も進んだ国の高速艇というべきか。
それは先を行く船舶をどんどん追い抜き、あっという間に沖に出る。
甲板にいたベリーは、あっという間に遠ざかっていく大陸を見て感嘆の息を吐き出した。
「本当に早いわね」
「それはそうですわ。我が国自慢の高速艇ですもの」
傍で地図を広げていたリーナが、くすくすと笑う。
それを聞き、ベリーは思わず彼女を睨みつけた。
けれど、リーナは全く怯むことなく笑みを零す。
もう何を言っても無駄だと早々に判断したベリーは、小さくため息をつくとリーナの傍から離れ、甲板を歩いた。
景色は予想以上に早く過ぎていく。
船の旅は、いくら高速艇でも数日かかると思っていた。
けれどこれならば、そう時間をかけることなく目的地に辿り着くことができそうだった。
それの予想に密かに安堵の息をつき、甲板の隅に腰を下ろしてそれを見上げる。
頭上には白い雲が、普段よりもずっと早いスピードで流れていた。
それから、どれくらいの時間が経ったのか。
気づけば辺りは真っ赤に染まっている。
ずっと甲板にいたベリーは、傍で立ち止まった気配に気づいて顔を上げた。
「寝ていたのか?」
「アール……。いいえ」
「そうか」
静かに首を振れば、アールは薄く微笑んだ。
その視線が、すぐにベリーから外れ、船の人へと向けられる。
「もうすぐ見えるぞ……」
その言葉に、ベリーは立ち上がり、アールと同じ方向へと目を向けた。
先ほどまで周囲はどこを見ても海だった。
けれど、今彼女たちが見ている方向には、島がある。
だんだんと大きくなっていくそれを見て、ベリーは思わずぽつりと呟いた。
「あれが、和国」
「ああ、ジパング王朝国家だ」
この世界で唯一、他の国々とは文化の違う国。
滅多に話を聞くことのないその国が、もう目の前にある。
「殿下、準備が整いました」
ふと、かけられた声に視線を動かせば、船員の1人がアールに向かって頭を下げたところだった。
「ああ、すまない。ありがとう」
「準備?」
不思議に思って首を傾げる。
「あの国は他の国と交流がないと言っただろう?通常なら、入国許可が出るまで申請からひと月かかる」
「加えて、我が国はあの国の心象がよくないみたいですから、意地悪をされる可能性もありますわ」
ふと別の声が耳に入り、ベリーは思わずそちらを振り向いた。
「リーナ」
名前を呼べば、そこにいた少女はにこりと微笑んだ。
その表情が、すぐに真剣なものへと変化する。
「ですから、申し訳ありませんが、おふたりにはここからボートで上陸を試みていただくことになります」
「ボートで?」
「ええ」
彼女の言葉で、漸く先ほどの船員の言葉の意味を悟る。
準備とは、つまりボートの準備ができたということだろう。
「ご安心ください。上陸まではちゃんとこの船の者がご案内しますから」
口を開かないベリーが不安に思っているとでも思ったのか、リーナはもう一度にこりと微笑んでそう告げる。
それを聞いたベリーは、ふうっとひとつ息を吐くと顔を上げた。
「わかったわ」
その言葉で、やりとりを見守っていたアールも安堵したのか、周囲には気づかれない程度に息を吐き出す。
そうしてから、気持ちを切り替えようとしたのか、一度目を閉じると真っ直ぐにリーナを見た。
「リーナ、すまなかった。ありがとう」
「いいえ、こんなことくらい、いつだって引き受けますわ」
礼を告げる義姉に向かい、リーナは笑顔を返す。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
代わりに向けられたのは、心配そうな明るい桃色の瞳だった。
「お姉様、くれぐれもお気をつけて」
「わかっている」
「ベリー様も」
「ええ。ありがとう」
彼女を安心させるように普段からあまり浮かべない笑顔を向けて、答える。
それにリーナが笑い返してくれたのを確認すると、ベリーはアールを見た。
「行くぞ」
「ええ」
目が合い、はっきりとそう言った彼女に向かい、頷く。
そのまま、船員に促されるままにボートに乗り込んだ。
船頭をしてくれるのだろう船員が乗り込むと、ボートはゆっくりと海に降ろされた。
船から離れたボートが、ゆっくりと陸に向かっていく。
「リーナ様」
それをじっと見送っていたリーナは、背中から声をかけられ振り返った。
そこには、彼女自身も義姉もよく知るこの船の船長が立っていた。
「よろしかったのですか?アマスル殿下を、あの者と2人きりでジパングに行かせるなど」
「……本当は、嫌でしたけれど。他でもないあの方のお願いですから」
そう、本当は嫌だった。
できることなら、公務以外で姉をこの国に関わらせたくなどなかった。
「しかし、アマスル殿下は確か、幻零の件であの国からの風当たりは良くなかったはずでは……」
「わかっています」
そう、義姉が昔、イセリヤの命令で師としていたあの女。
ダークマジック四天王を名乗っていたあの女は、どうやらジパング内での地位もそれなりに高かったらしい。
そのために、あのときその空間に居合わせ、あの女を助けなかったアールに対して、ジパングはいい印象を持っていなかった。
リーナもそれを知っていた。
知ってはいた、けれど。
「それを分かった上で、殿下は行くと仰ったのです。ミルザの血を引くあの方のために」
アール自身がそれをわかった上で行くと言ったのだ。
だから、自分にはそれ以上止めるための言葉をかけることはできなかった。
義姉の覚悟を、自分が折ることなんてできないと思ったから。
だから。
「わたくしたちにできることは、信じて待つことですわ」
アールの覚悟も、ベリーの、自分たちには想像もできないような決意も、信じて帰ってくるのを待つ。
共に行かない以上、自分たちにできるのはそれだけだった。
それを改めて認識して、リーナは思い切り息を吐き出す。
そうと決めたなら、このままいつまでもここでぼうっとしているわけにはいかない。
「さあ、あの国に気づかれる前に結界を張ります。総員、持ち場に戻ってください」
「はっ」
声をかければ、船長は敬礼をし、部下たちに指示を出すため、戻っていく。
それを見送って、ジパングの者たちから姿を隠すための結界を張ろうと、リーナは手にした杖を握り直した。
その目がもう一度、もう黒い点のようにしか見えなくなっているボートを見つめる。
「ご無事で、おふたりとも」
ぽつりと呟いたその言葉は、届かないと知っていた。
けれど、言わずにはいられなかった。