Chapter6 鍵を握る悪魔
2:悪魔の薬
シルラの薬を持ち帰って1週間。
それから全くインシングへ行こうとしないペリドット――実沙は、薬の分析を頼んだ百合の代わりに理事室で仕事を片付けていた。
エルザのという名のハンターの騒動以来、情報収集に散ることになった彼女たちの中で、普段から学園に残って理事部の運営をしているのは、理事長である百合と、紀美子と鈴美の3人だ。
特に入試前で忙しいこの時期に、理事長直属であるが故に生徒会と学園運営の一部を担うこの部の人数をこれ以上減らすわけにも行かず、百合が抜けている間、実沙がこちらに残ることになったのだ。
と言っても、さすがに理事長のサインが必要な書類に手を出すことはできなかったけれど。
「願書の締め切りっていつだっけ?」
「ええっと、来週の頭じゃなかったかな?」
「じゃあ教室の指定と机の配置はその後だね」
「うん」
中学3年の冬から交わされるようになったその会話を、今年は後輩2人だけが交わしている。
それに何となく寂しさを感じながら、黙々と書類製作を進めていた実沙は、不意に感じた違和感に顔を上げた。
それは後輩2人も同じだったらしく、何かしら話をしながら書類をまとめていた2人は、今は手を止め、天井を見上げている。
「……紀美、実沙先輩」
最初にそう声を発したのは、常の彼女とは打って変わり鋭い瞳をした鈴美だった。
鈴美の性格は覚醒して以来、徐々に『ベリー』の時のものと統合されつつあった。
穏やかで気の弱い少女が、突然冷静で冷たい性格になったら誰もが驚く。
それを考慮して、普段は以前の自分を演じている鈴美だが、周囲に自分たち理事部以外の人間がいないとき、緊急事態のときなどは、こうして本来の性格を表に出すことにしているらしい。
ここは理事長室であり、自分たち以外には誰もいない。
そして今3人が感じ取った違和感は、まぎれもなく魔力が生じた際に感じる気配だった。
それも発生源は屋上だ。
異世界からの連絡通路は、室内から行き来できる、理事長室付属の資料室だと決めているから、友人たちが向こうからやってきたわけではない。
なら一体、何が来たというのだ?
3人が揃って顔を見合わせる。
頷き合って立ち上がろうとした、そのときだった。
突然がしゃんとガラスの割れる音が響いた。
驚いた3人が、揃って百合専用デスクの向こうの窓へ視線をやったその瞬間。
「こぉらぁっ!実沙ぁぁぁっ!!」
声と共に飛び込んできた赤い何かが、実沙に向かって思い切り怒鳴った。
突然のことに驚いて、思わず動きを止めてしまった実沙は、その赤い塊が何か認識した途端、大声を上げた。
「ル、ルビーちゃんっ!?」
飛び込んできたのは、何故か『時の封印』を解いたままの紀美の姉、金剛赤美ことルビー=クリスタ。
赤い塊に見えたのは、いつもはポニーテールに纏められているはずのその真っ赤な長い髪が何故か降ろされていて、白い服を隠してしまっていたからだ。
「何でルビーちゃんがこっちにいんの?向こうに行ったんじゃないの?」
「そんなことより!何考えてるのよ姉さん!窓から飛び込んでくるなんて、他の生徒に見つかったらどうするつもりっ!!」
目を白黒させている実沙の後ろから、激怒した様子の紀美子が叫ぶ。
ここは幸い、小中高全ての校舎の間にある中央管理棟で、他の校舎とは連絡通路を除いて塀で隔てられているから、誰かに見られている可能性は低いだろう。
だがもし見られていたら、騒ぎになるどころではすまないはずだ。
紀美子はそれを考えて姉を叱ろうとしたのだけれど、当のルビーは妹の説教など聞いてはいなかった。
「ちょっと実沙っ!あんた何持って帰ってきたんだっ!!」
「……へ?」
突然のその問いに、実沙はきょとんとして首を傾げる。
ここ数か月、自分が彼女に何かを渡した記憶はない。
何のことだろうと考えるいると、待ちきれなくなったらしいルビーか、癇癪を起こしたかのように叫んだ。
「あんたがこの間百合に渡した薬だっ!!」
「え?あ、ああ。あれ。あれがどうしたの?」
ルビーが怒鳴る理由がわからなくて、実沙は首を傾げる。
そんな彼女の反応に、ルビーがもう一度叫ぼうとしたときだった。
「あれの結果が出たのよ」
唐突に聞き慣れた声が聞こえて、3人ははっと扉の方を見る。
そこにいたのは、いつもの通り制服に身を纏った百合だった。
いつもは腰の辺りで纏められている長い髪が、何故かルビー同様解かれている。
それを後ろへ流すような仕種をした際に目に入っ右手の甲を見て、鈴美は驚き、目を瞠った。
「百合!その傷は……」
「ああ、これ。さっき作ったの」
「さっき作ったって、どこで?」
あくまで冷静な鈴美の声は、しかし緊張で強張っていた。
それもそのはず、百合の右手の甲にあった傷は、ただの傷ではない。
まるで巨大な獣に襲われたかのような大きな引っかき傷が、その白い手に赤い線を引いていたのだ。
「屋上よ」
「っ!?やっぱり何か来たのっ!?」
「いいえ」
弾かれたように聞き返した鈴美に、百合はきっぱりと答える。
理事長室に残っていた3人の表情が、不思議そうに歪んだそのときだった。
「来たんじゃなくて作ったんだよ、あたしたちが」
「えっ!?」
ルビーの発したその言葉に、3人は驚いて彼女を見た。
「作ったって、どういうことっ!?」
「実沙がアールたちのところから持って帰ってきたこの薬」
そう言いながら百合が差し出したのは、小さな瓶に入った、僅かに紫に色づいた粉薬だった。
「これ、グールパウダーだったわ。それも一番最悪な種類のね」
「えっ!?」
百合の言葉に、実沙は思わず声を上げ、真っ青になった。
薬には疎い実沙でも、聞いたことくらいある。
あのエルザという名のハンターや『虐殺の双子』と呼ばれた人形師の兄弟が服用した『種換の秘薬』。
現在となっては製法が完全に失われているはずのあの秘薬は、しかし別の形で現代にも残っていた。
それが今百合が持つグールパウダーという薬だ。
一言にグールパウダーと言っても多くの種類があるそれは、簡単に言ってしまえば、遺伝子を作り変えてしまう薬だった。
原材料は魔界に実存する悪魔たちの血肉だと言われ、それ故に『悪魔の薬』と呼ばれるもの。
弱いものを解毒剤も合わせて服用すれば、一種のドーピング薬にもなるそれの、一番最悪な種類のものといえば、言うまでもない。
人の体を、完全に悪魔のそれへ変えてしまうもの。
「た、大変だっ!!」
止まった頭でそこまで理解したその瞬間、実沙は立ち上がってそう叫んでいた。
その言葉に、百合は「何?」と言わんばかりの視線で実沙を睨みつける。
「だってそれ、シルラ君、ずっと飲んでたってっ!!」
「何ですってっ!?」
「えっ!?」
実沙の言葉に、その場にいる全員が声を上げる。
真っ先に我に返った百合は、一番奥の1人がけ用のソファの前に立つ実沙の側に駆け寄ると、大声で彼女を怒鳴りつけた。
「どうしてそういうことを先に言わないのっ!」
「だって!まさかそんなにやばいもんだとは思わなかったんだよっ!」
まさか顔色が蒼白だった理由が、その薬のせいで遺伝子組み換えが行われているせいだとは、露とも思わなかったのだ。
だからアールが急ぎで調べてほしいと言っていたとだけ言って、百合に薬を渡した。
確かに色はおかしいと思っていたけれど、まさかその薬が、そんなにまずいものだったなんて。
「ルビーっ!」
「え?」
実沙を睨みつけた表情のまま振り返った百合に、ルビーは驚いて声を漏らした。
そんな彼女の様子には構わず、百合は強い口調で叫ぶように命じた。
「今すぐエスクールに言って、ティーチャーを連れてきてっ!」
「え?何で?」
「もし薬が効き始めていたら、解毒剤じゃどうしようもないわ!けど、妖精族の魔力なら、完全に変化してしまってさえいなければ、何とかできるはずよ!」
「……っ!?わかったっ!」
百合の説明に納得すると、ルビーは真っ直ぐに紀美子を見る。
姉の意図に気づいて頷くと、紀美子はすぐに彼女と共に隣の資料室へ駆け込んだ。
本来魔道士ではないルビーでは、慣れてきたとはいえ、ゲートは不安定にしか開けない。
思わぬ事故を起こすわけにも行かない今、それを正確に、より安定させて開くことができる紀美子がついていった方が良いと、姉妹は判断したのだ。
「鈴ちゃん、留守番頼めるかしら?」
「ええ」
百合の問いに、鈴美ははっきりとした口調で答え、頷く。
それに「ありがとう」と短く礼を告げると、百合は再び実沙を振り返った。
「私たちも行くわよ。シルラ王の容体を見なくちゃ、どうすればいいかなんて判断できないからね」
「うん。わかった」
有無を言わせぬ瞳で言う百合の言葉に、断るどころか今すぐにでも飛び出していくつもりだった実沙はしっかりと頷く。
もう一度、一瞬だけ鈴美に視線を送ると、2人は先ほどルビーと紀美子が消えた資料室の扉を開けた。
部屋の中には、既に姉妹の姿はなかった。
「行ってらっしゃい!」
鈴美のその言葉を聞きながら、扉を閉める。
完全にそれが閉まったことを確認すると、実沙は腕輪を、百合は右手の中指に嵌めた指輪を翳した。
既に封印を解くための呪文は、必要なくなっていた。
それぞれのアクセサリーが光を放ったかと思うと、それが全身を包み、持ち主の姿を変化させる。
実沙の髪と瞳が若草色に変化し、同時に光に包まれた服が別のものへと変わる。
光が消える頃には、2人の姿は完全に先ほどとは違うものになっていた。
「ペリート」
本来の名を口にする百合-ミスリル-に頷き返すと、実沙であった少女-ペリドット-は自分の前に手を翳す。
「異界の扉よ。我らが前に姿を現わし、我らを異界の地へ誘わん」
詠唱文を一部省略してしまったが、彼女レベルの魔力の持ち主に、そんなことは関係なかった。
「ゲート!」
たった一言、それさえ口にすることができれば、異世界への扉はいとも簡単に開くのだから。
一瞬空間が歪んだように目の前が揺らぎ、目の前の空中にぽっかりと黒い穴が口を開く。
それが十分な大きさになったことを確認すると、ペリドットはミスリルを振り返った。
「行くわよ」
「うん」
ミスリルの言葉に戸惑うことなく、どこか緊張した面持ちで答える。
彼女が自分の隣に立ったことを確認すると、ペリドットは迷うことなく、床まで届いたその穴の中へと足を踏み入れた。