Chapter2 法国ジュエル
6:逃亡劇
だんだんっと壁を殴る音が聞こえる。
何度も打ち付けられた拳には血が滲み、壁もそれが滴り落ちた床も一部が赤く染まっていた。
中国地方のとある街。
そこにある空き家に忍び込んで身を隠していた赤美は、何度も何度も壁に拳を打ち付けていた。
理由は悔しさと、自分に対する情けないという思い。
まだ完治していない怪我で親友と妹の足を引っ張るのが嫌だったから、黙って別行動を取っていたというのに。
それが仇になるなんて、最初は思っていなかったというのに。
たまたま食料を買いに出かけた赤美は、電気屋の店先で信じられないニュースを見た。
破壊されたビルの屋上。
そこで目撃された3人の人物。
京都と北海道で起きた怪奇事件と似ているという事件の報道。
別行動を始めてから今まで、一度もテレビを目にしなかった赤美には大きすぎる事実。
6人の仲間たちが一度に消息を絶った。
それが、彼女の中での今回の件の結末。
無意味だとわかっていても、初めて電源を入れて通信機を床に放り出す。
仲間たちからは何の連絡もなかった。
こちらからかけてみても、誰にも繋がらない。
自分が1人になってしまったと、思い知らされた。
荒い息が部屋の中に木霊する。
血の滴り落ちる拳の手当てもしようとしないで、赤美はその場に膝をついた。
『組織潰し』の二つ名を持つ最強女子中学生が、まさか寂しがりやなんてね。
ふと、あのイセリヤとの戦いの後、親友に言われた言葉を思い出した。
「本当駄目だよ、あたし」
自分を知らない奴は信じないけれど。
レミアやペリドットだって、驚くかもしれないけれど。
自分は寂しがり屋だと、心のどこかで自覚している自分がいた。
「残ったあたしにどうしろって言う?どうしたらいい?誰か、教えて……」
『珍しいね。セキちゃんが泣き言言うなんてさ』
突然耳に飛び込んできた聞き覚えのある声に、はっと顔を上げた。
反射的にスイッチを入れたまま放っておいた通信機を手に取る。
「実沙っ!?」
『ご名答♪やっと繋がったね。元気だった?』
通信機の向こう側から返ってきたのは、最初の怪奇事件が起こった京都の山の中でルーズに連れ去られたと思われていた実沙――ペリドットで。
「あんた、無事だったのっ!?」
突然のことに驚いて、自分が忍び込んでいるという事実も忘れ、赤美は叫んだ。
何より嬉しかったから、疑うことだって忘れていた。
『うん!……あたしはね』
明るかった声が突然沈んだものに変わる。
その変化を正確に感じ取って、赤美は思わずごくりと息を呑んだ。
『あたしは』と言うことは、実沙以外は無事ではないということなのだろうか。
他のみんなはどうしてしまったと言うのだろう。
『それにしても、別行動してたんだね、セキちゃん。てっきり紀美ちゃんや美青と一緒だと思ってた』
「……仕方ないでしょ。あたしにだって事情があるのよ」
相手に顔は見えないとわかっていて、思わず赤美は通信機から視線を逸らした。
「それより、あんた今何処にいるの?」
『それは、言えない』
その答えに、赤美は体中がかっと熱くなるのを感じた。
「何でっ!あたしは……」
『あのね赤美』
言いかけた言葉を遮られ、赤美はぐっと口を閉じる。
実沙の声が、いつもと違って真剣だということがわかってしまったから。
いつも軽い口調で話をする彼女がこんな口調で話していることで、今回はかなりまずい状態なのだと理解してしまったから、言葉を続けることができなかったのである。
『“ミュークの相棒の情報を掴んだ街に来て”』
「……は?」
言われた言葉の意味がわからなくて、思わず聞き返す。
『ミュークの相棒の、情報を掴んだ街に、来て』
もう一度、今度はゆっくりと実沙が告げる。
『あたしたち、そこで待ってるから』
「待ってるって、ちょっと待って……」
『じゃね。十分気をつけてきてよ~。絶対、待ってるんだから!』
突然いつもの口調に戻って言ったかと思うと、こちらの言葉を完全に無視したままぷつりと通信が切れた。
「ちょ……っ、実沙!実沙っ!」
名を叫びながらかけ直してみるけれど、二度とそれが繋がることはなかった。
どうやら向こうが電源を落としてしまったらしい。
「……くそっ!」
ぶんっと勢いよく通信機を投げる。
それは床に当たると、がしゃんと音を立てて転がった。
「美青の相棒の情報を掴んだところ、って言われても……」
呟いて、考え込む。
そもそも彼女の相棒は、ずっと自分だと思ってきた。
それは、自分の独りよがりな考えかもしれないけれど。
少なくとも、自分は相棒にするならば美青――タイム以外にありえないと思ってきた。
それだというのに、実沙のあの言葉の意味は一体何を表すというのだろうか。
そこまで考えて、ふと顔を上げる。
「ちょっと待って。ミュークの相棒……?」
呟いて、はっとする。
何故実沙はわざわざ美青のことを『ミューク』と呼んだのか。
確かに彼女のファミリーネームは『ミューク』だけれど、自分たちは彼女のことをそんな風に呼んだりはしないはずだ。
呼んでいたとすれば、あの時だけ。
まだ“スピアマスター”が誰なのかわかっていなかった、あの時だけ。
エスクール!?
実沙の言葉の真意に、そしてそれが示す場所に気づいて、赤美は立ち上がった。
直様広げていた荷物をまとめ、こっそりと部屋を出る。
空き家に忍び込んでいたのだ。
堂々と出て行けるわけがない。
家からだいぶ離れて、漸く姿を隠すことを止めた彼女は、一目散に以前見た近くの郵便局に走っていく。
行き先が異世界と断定したのだ。
もはや荷物を持ち歩く理由もない。
だからと言って荷物を捨ててしまうわけにも行かず、寮に送り返すことにしたのである。
決断してしまえば、彼女の行動の速さはいつものこと。
見つけた郵便局に入り、5分足らずで用を済ませると、今度は先ほどの空き家に戻るため、再び走り出す。
荷物がなくなったしまった分走りやすいなどと思えるのは、心に余裕ができたからであろう。
口の中で“時の封印”を解くための呪文を小さく詠唱しながら、彼女は走った。
彼女の荷物はたったひとつ。
左腕にはまった赤い腕輪だけ。
「そんなに急いで何処に行くのだ?異世界の者よ」
唐突に、頭に直接響くような声が空気を揺らした。
反射的に足を止め、振り返ってしまう。
自分の走ってきた道に、いつの間にか首から7つの水晶が嵌ったペンダントを下げた白いローブの男が立っていた。
その顔には、薄っすらと笑みが浮かんでいる。
「足を止めたか。ということは、やはりこの魔力の出所は貴様だな」
にやりと笑った男の言葉に、はっと目を見開く。
インシングならば気にならないが、空気中に魔力の存在しないアースでは、呪文の詠唱によって漏れ出す魔力も敏感に感じることができる。
その微量の魔力を感じ取ったのだ。
この目の前の不審な男は。
「あんた、誰?」
聞かずにそのまま走り去っていればよかった。
そんな後悔が襲ってきたが、もう遅い。
ぎりっと歯を噛み締めながら、平静を装ってそんな問いを投げかけた。
「おやおや。こんな異様な尋ね人に、この世界の人間がそんなに冷静に質問をしたりするのか?」
くすくすと笑う男にむっとしながらも、赤美は表情を変えようとはしなかった。
「生憎、知り合いにゲームキャラとかのコスプレが大好きな奴がいるもんでね。で、何?あんたもその類いなわけ?おじさん」
相手は地に立つ人間の姿をした男だ。
コスプレと言ってしまえば、周りはそれで納得してしまうかもしれない。
「そのコスプレというのが何なのかはわからんが、あくまでとぼけようと言うのならば」
言葉を口にしながら、男は胸に下がっているペンダントに手を伸ばす。
そこに嵌っている水晶のうちの1つ、青い水晶を外すと、隙をついて逃げようとしている赤美へとそれを掲げた。
「その姿のまま、仲間の手によって捕らえられるがよい!」
青い水晶が強く輝いた。
その光に、思わず赤美は腕で自らの目を覆い隠す。
「え……?」
光が収まり、再び目を開らいたとき、目の前に現れた人物に愕然とした。
後ろでひとつに束ねた青く長い髪。
手に持つ棍はいつものそれではなく、まったく別の真っ黒なものだったけれど。
目の前に現れたのは、間違えられるはずがない、大切な親友。
「タイム……?」
呟いて瞳を見てから、気づいた。
目の前に立つ彼女の目には、光が宿っていなかった。
生気を失ったような虚ろな目。
何処を見ているのかさえもわからない、青い瞳。
「さあ、わが僕よ。その女を捕らえよっ!」
ルーズの言葉に答えるかのように、棍を構えたタイムが地を蹴る。
その動きを認識した途端、赤美は我に返って反射的にそれを避けた。
伊達に普段から不良を相手に喧嘩しているわけではない。
“時の封印”を解いているときより多少力は劣るけれど、今のタイムの攻撃を躱すだけの実力は十分についていた。
ただし、それは直接攻撃に限った話。
「大気に溶け込みし、無限の水よ。今ここに、我が元に集い、敵を倒す柱とならん」
耳に入った言葉にぎくりと体を震わせて、足元に視線を落とす。
タイムの言葉に従うかのようにそこに薄っすらと、それでも確実に水分が集まってくるのを感じた。
それが、大きな渦を作り始めていることも。
「……ちっ」
小さく舌打ちをしたかと思うと、赤美は口の中で素早く言葉を紡ぐ。
「スプラッシュっ!」
地面から飛び出した水の柱が、真上にいた赤美に打ち付けられる。
大量の水が一気に噴き出したのだ。
ただで済むはずがない。
勢いに乗って空中に投げ出されてしまうのが、普通だった。
しかし、男――ルーズの予想に反して、黒髪の少女の体が宙に投げ出されることはなかった。
代わりとでも言うように、唐突に水の柱の向こうから炎が現れる。
炎は吹き上がった柱を全て包み込み、蒸発させて空気中へと返していく。
「……ようやく正体を見せる気になったか」
ゆっくりと、ルーズは水の柱があった場所へと視線を向けた。
そこにいるのは、先ほど水の柱に飲まれた少女と瓜二つの、赤い髪の女。
長い赤い髪は頭の上できっちりとひとつに束ねられ、額には緑のバンダナをつけている。
それは赤美の本来あるべき姿。
「マジックシーフ、ルビー=クリスタ」
呼ばれて俯いていた赤美――ルビーは顔を上げた。
露になったその赤い瞳に浮かんでいるのは、明らかに憎悪の色。
「あのまま逃げ切るつもりだったけど」
呟くように言って、ルビーは2本の短剣を抜いた。
「あんた、ただで帰れると思うんじゃないよ」
短剣を構えて、ぎっとルーズを睨む。
しかし、そんな瞳を向けられてもルーズは楽しそうに笑うだけだった。
「果たして、私に手が出せるかな」
ぱちんと指を鳴らすと、先ほどまで立ち尽くしていたはずのタイムが、ルーズとルビーの間に立った。
「タイムっ!?」
一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに表情を引き締めて短剣を握り直す。
自分が彼女を倒せないことは、十分承知している。
だからせめて、どうにかして気絶させなければ。
短剣を握り直したルビーに戦意があると判断したのか、虚ろな瞳をしたままのタイムが打ち込んでくる。
それを短剣を交差させて何とか止め、振り上げた足で腹を思い切り蹴った。
突然の出来事に、タイムの体が簡単にルビーから離れた。
少し離れたところで膝を突き、げほげほと咳き込んでいる。
「……ごめんっ!」
その隙を突いて、ルビーは短剣を持ち直すと、咳き込むタイムの首に剣の柄を使って一撃を入れる。
突然の衝撃に一瞬だけ目を見開いて、タイムはその場に倒れた。
その瞬間、彼女の体が光を放った。
驚く間もなく水晶から飛び出た光がタイムを捕らえ、再び青い水晶の中へと吸い込んでいく。
「タイムっ!?」
「悪いが、遊びはここまでだ」
突然妙に頭に響いた言葉に、ルビーは視線を動かした。
その先にいたのは、手の上にあの透明な水晶を乗せたルーズ。
「我が力となってもらうぞ、マジックシーフ」
「な……っ!?」
突然の言葉に、言い返そうとルビーが一歩前に出る。
水晶が光を放ち始めたのとそんな彼女の視界が突然変化したのは、ほとんど同時だった。
視界を塞いだ目の前を真っ黒にしたものは、紛れもない『ゲート』と言う呪文で。
その穴の向こう、異世界からの言葉に、ルビーははっと穴を見る。
差し伸べられた手。
早く早くとせがむ言葉。
それが異様に懐かしくて、疑うことなど忘れてしまっていた。
ほとんど一瞬の判断で、ルビーは黒い穴から差し出された手を取る。
向こうが握り返すと同時に、強い力で穴の中に引っ張り込まれた。
この間、約10秒程度。
水晶が輝くよりも早く、穴は小さくなっていく。
強い光を放ったときには、空間にぽっかり明いたその穴は完全に姿を消し去っていた。