Chapter1 帝国ダークマジック
2:光の魔道士
暗い道を彼女は歩いていた。
何も見えない真っ暗な道。
ただ遠くに一転の小さな光が見えるだけの道。
他に行けそうな場所も無く、彼女はそこを目指して歩き続けた。
光はだんだんと大きくなり、やがて彼女はそこに辿り着く。
そこは神殿らしき建物の入り口だった。
そっと中に入ってみる。
辺りを見回していると、先ほどとは別種の光が奥から微かに漏れているのが目に入った。
不思議に思い、その光を目指して歩く。
そして辿り着いた場所は、神殿の広間のような場所だった。
広い部屋の真ん中には祭壇があり、その上には小さな台座が置かれている。
その台座の中央に黄色く輝く水晶球がひとつ、ぽつんと安置されていた。
綺麗……。
単純にそう思って思わず手を伸ばした。
指先が珠に触れた瞬間、そこから光が大量に溢れた。
目も開けていられないほどの、それでも懐かしい光が。
今日でもう何度目になることか。
赤美は自分の席に座ったまま大きなため息をついた。
「どうしたの?珍しい」
前の席に座っていた美青が振り返って問いかける。
「ん?いや、別に……」
答えてしまってから、この自分の隠し事は何でも見透かす親友に黙っていても仕方がないと思い直す。
そんな自分の考えに先ほどとは別種のため息をつくと、思い切って最近の悩みを打ち明けた。
「最近、紀美がおかしくてさ」
「紀美ちゃんが?」
「そう。何か、寝坊することが多くなってたり、料理しているときもぼーっとしてるみたいだし」
「それって……」
驚愕ように目を見開いた美青を見て、意味の分からない赤美は首を傾げる。
「いわゆる“恋”って奴じゃない?」
「んな……っ!?」
返された予想もしなかった言葉に思わず声を上げた。
「じょ、冗談!まだ紀美だって中学生だよ!」
「今のあたしたちの年代って結構マセてるじゃない。わかんないよぉ……」
そう言われるとだんだん不安になってくる。
「あたし思うんだけどさ」
ふうっと大きくため息をついて、美青が先ほどとは打って変わった真剣な瞳で赤美を見る。
「いくら自分が男嫌いだからって、それを紀美ちゃんに押し付けちゃ駄目よ」
「……わかってるよ」
声音を落として言葉を返すと、美青は「本当かな」と呟き、話はおしまいとばかりに前を向いてしまった。
そう、赤美は男嫌いだ。
必要以上に声をかけようとはしないし、暴言を吐こうものなら物凄い表情で睨みつける。
難癖を付けて手を上げようものなら返り討ち、下手をすると病院送りにするという凶暴さ。
その全ては幼い頃、幼馴染の新藤悠司――この間邪天使に襲われかけた少年――がちょっとした出来心でやった悪戯が原因だった。
それはどうでもいいんだけど。
今は自分のことより妹のこと。
彼女の様子が変わったのは確か先週、ダークマジックの邪天使隊が初めて人前に姿を現わした日。
赤美が本来の姿を――ルビー=クリスタとしての自分を初めて人前に曝した日だ。
全てを知ったのは2週間前だった。
それまで1週間近く同じ夢を繰り返して見ていた。
赤い神殿の夢。
暗い道を進んでいるうちにその神殿に辿り着き、あの赤い水晶球――“魔法の水晶”と呼ばれる一族の秘法――を手に入れる夢。
それを最後に見たのがあの日の朝だった。
たまたま夜中に翌日使う予定のペンのインクが切れてしまったことに気づいた赤美は、紀美子に内緒でこっそりと買い物に出かけた。
行きつけの文具店は閉まっていても、コンビニならばやっているはずだからと考えて。
そして、そこで出会ってしまったのが偵察に来ていた邪天使だった。
それが引き金だった。
姿を見られてしまった邪天使が彼女を襲ってきたのだ。
いくら――よく男と喧嘩することがあったため――喧嘩慣れしていた赤美でも、空を飛ばれて得体の知れない光を撃ち続けられてはたまらない。
まずいと思った、そのときだった。
目の前に夢の中で見たあの水晶球が現れたのは。
あとは全て水晶球が教えてくれた。
自分が本当は何者なのか。
そして、もうひとつの世界のことも。
あと、6人。
あと6人、仲間を集めなければならなかった。
自分と同じ、別の世界の血を引く仲間を。
“セブンマジックガールズ”。
異世界インシングにおいて『七魔法の少女』の意を持つこの言葉は、“精霊の勇者ミルザ”の血を引く者を呼ぶときに使われる。
ただし、その名が使われていたのは初代の頃の話で、現在では『勇者の子孫』と呼ばれるのが普通だった。
ミルザの血を引いていれば誰でもいいというわけではない。
7つの属性ごとに分かれた“魔法の水晶”。
7の家系にそれぞれ伝わっているそれを扱うことが出来た者のみが、新たな勇者家の当主としてその名で呼ばれることになる。
水晶は代々その家の『長女』しか継承することが出来ないという特殊な物。
そのためか、ミルザの一族――少なくともその7つの家系――には必ず女子が第一子として生まれるという魔法的な誓約があった。
机の上に転がしておいたシャープペンを取り、広げたままのノートにすらすらと文字を書く。
“クラリア”、“クリスタ”、“ミューク”、“ウィンソウ”、“レイン”、“オーサー”、“フルーティア”。
これが先代までの7つの家系。
もっとも、初めて7つに分裂したときからこれは変わっていないのだが。
1人は既に誰だか目星はついている。
先代の残した記憶――水晶に記録され、覚醒時に一部が自分の中に入ってきたのだ――によると、他の4人もこの市内に住んでいたらしい。
引っ越してさえいなければ、すぐに見つけられるはずである。
ただ、たった1人だけ、問題があった。
ノートの上を行ったり来たりしていた視線が、ある名前の上で止められる。
“ミューク”。
その名を持つ人物だけが、行方不明になっていた。
原因はわからない。そこまで水晶は教えてくれなかった。
だが、先代がここに定住して以来、この人物に関する記憶だけがすっぽりと抜けてしまっている。
そして、その記憶ははっきりとこう言っていた。
ミュークだけがここにはいないと。
「金剛!」
突然声をかけられ、赤美ははっとしてノートを閉じた。
ぎろりと睨みつけるような視線で顔を上げる。
「……何よ?」
視線を上げた先にいたのは案の定、幼馴染みである新藤悠司だった。
この間敵に捕まりかけ、ギリギリのところで助けた男子生徒が彼だったことを、彼女は未だに後悔している。
いっそのことダークマジックにくれてやればよかったと。
「なあなあ、昨日の理科のノート見せてくれねぇ?居眠りしたら写しそこねてさぁ」
「嫌」
即答。それもかなりきっぱりと。
「えー?何でだよぉ」
「嫌!大体ノートだって自業自得でしょ!んなことだからいつまでたっても真ん中なのよ!」
ぴくっと新藤の眉が上がる。
ちなみに真ん中というのは定期テストでの成績の話である。
美青、沙織、百合の3人もそうだが、信じられないことに赤美も学年トップクラスの成績を誇っていた。
「うるさいなっ!!いいじゃねぇかよ!最下位じゃないんだからっ!」
がたっと音を立てて赤美が椅子から立ち上がった。
「学年ベスト5のあたしから言わせてもらえば馬鹿よ馬鹿っ!」
「お前だってケンカ馬鹿だろっ!!」
「違うっ!!あんたいっぺんぶっ潰すよっ!!」
ばんっと思い切り机を叩いて怒鳴った瞬間、すぱーんっと気持ちのいい音がふたつ、教室に響いた。
それを聞き取った全員が思わずそちらに視線を向ける。
「いい加減にしなさい」
瞳に怒りを宿して静かにそう言ったのは、今の今まで自分の席で読書をしていたはずの百合。
その手には、何処から持ってきたのかハリセンが握られていた。
「百合ぃ~」
「自業自得よ、あんたたち」
涙目で目の前に立つ百合を見上げたが、当の彼女はそれを無視して苦笑している沙織の方へ戻っていく。
「いい加減にしろってことね」
再び振り返った美青がため息をつきながら言った。
「ほら新藤。ノートならあたしの貸してあげるから」
「あ、ああ。サンキュー音井」
突然のことに固まってしまった新藤は、突然渡されたノートをしばし呆然と見つめていたが、しばらくして漸くそれが何かを認識し、礼を告げる。
「赤美も。いちいち喧嘩してると変な誤解受けるよ」
「……わかってますよ」
拗ねた様子で、わざと敬語を使ってそう返すと、赤美はそのまま自分の席に腰を下ろそうとした。
その瞬間、体を走り抜けた感覚に無意識のうちに目を見開く。
「……っ!?」
声にならない叫びを上げて踏み止まると、彼女は慌てた様子で窓の外へ視線を投げた。
「赤美?どうかした?」
その様子をどう思ったのか、不思議そうに美青に声をかけられる。
「な、何でもない」
慌てて首を横に振ってそう返しはしたものの、心は何でもないなんて言えないほど騒いでいた。
まるでこれから起こるだろう出来事を知らせるかのように。
「……あれ?」
「どうしたの?紀美ちゃん」
鞄を開けて小さく呟いた紀美子に、側にいた少女が声をかけた。
「ああ~。慌ててから間違えたみたい」
そう言って紀美子が取り出したのは、3学年用の数学の教科書。
「そういえば、ここのところずっとギリギリだよね。紀美ちゃんが来るの」
「あ、あははは……」
思った疑問を口にしただけだろう少女の言葉に何も言えず、紀美子は僅かに視線を逸らして乾いた笑いを漏らした。
「ねぇ、鈴ちゃん。授業までまだ時間あるよね?」
「う、うん」
突然声音を変えて問われた言葉に、思わず少女は首を縦に振る。
「じゃあ置いてこようかな」
「急いだ方がいいよ。次の先生、来るの結構早いから」
「うん。じゃあちょっと行ってくる」
そう告げると、紀美子は教科書を持って教室を飛び出した。
「まったく……。人の部屋に教科書散らかすの止めてほしいのに」
文句を言いながらため息をついて階段を上がる。
まだ休み時間だったから、階段には人が溢れていた。
紀美子が側を通ると、大抵の男子生徒が振り返り、ひそひそと話を始める。
そんな光景を横目で見て、無意識のうちにため息をついた。
こういうの、嫌いなんだけどなぁ……。
どうにも自分はこの学内で『恋人にしたい』と言われるほど人気のある女生徒らしい。
けれど、自分の何処をどう見ればそんな風に思われるのかがさっぱりわからない。
そもそも紀美子は他人の前では猫を被っていることの方が多いのだ。
そんな自分の表だけを見て何処がいいと言えるのだろう。
そんなどうでもいいことを考えながら、姉の教室のそばまで来たときだった。
どんっという爆発音が辺りに響いた。
一瞬だけ遅れて校舎全体が激しく揺れる。
「きゃあ!」
突然の揺れに紀美子はバランスを崩してよろけた。
足を踏ん張ることが出来ずに、そのまま近くの壁にぶつかり、座り込む。
「な、何?今の……?」
辺りをきょろきょろと見回しながら、落としてしまった教科書を拾い上げ、立ち上がろうとした。
そのとき耳に入ったがらっという聞き慣れた音に、反射的に顔を上げる。
爆発のせいだろう騒がしい3年A組の教室から、慌てた様子で誰かが飛び出してきた。
それが誰だか理解した瞬間、紀美子はほっとして笑顔を浮かべる。
「姉さ……」
呼びかけるより先に、赤美は彼女の横を走り抜けていった。
そのときの廊下にはまだ結構な数の生徒がいたため、赤美の出てきた扉から見て、紀美子のいる位置は別の誰かの影になって見えなかったのだ。
だから彼女は妹の存在に気づかず、その場を走り去ってしまった。
「……姉さん?」
すれ違った瞬間、普段とは違う焦った様子の姉の顔が目に入る。
滅多に見せない本気の焦り顔が、何故か妙に気になった。
根拠も何もないのに、姉をそのまま放っておいてはいけない気がして。
意を決して立ち上がると、紀美子はそのまま階段の方へ消えた姉を追いかけた。
教室を飛び出した赤美は、靴を履き替えることもせずに1階の廊下の窓から校舎裏へ飛び降りた。
そのまま前もって確認をしておいた死角になる場所へ身を隠す。
そんなことをしなくても、現在学校中の意識は校庭へと向けられていて、自分の行動を目撃される可能性は低いのだが。
一応の警戒のために辺りを見回して誰もいないことを確認すると、懐から例の杖――赤美自身はロッドと呼んでいる――を取り出して、ふうと小さく息を吐いた。
ゆっくりとロッドを空に向かってかざして、なるべく声が響かないように注意して言葉を紡ぐ。
「我、インシングの勇者の血を受け継ぐ者。今ここに、我にかかりし“時の封印”を解かん!」
言葉を全て言い終えた瞬間ロッドの先端の赤い玉――魔法の水晶が赤い光を放ち始めた。
光は炎のような形を取り、呼び出した赤美を包んでいく。
その光が完全に体を包むと共に、彼女の姿が変化を始めた。
純粋な黒だった髪と瞳は炎のような赤へと変わり、着ていた制服も光のように体を離れ、次の瞬間には別の形――あの白い服――になって再び彼女の体を包む。
腕にしていたはずの時計も履いていた靴も消え、身につけていたもの全てがあの赤い髪の少女と同じものになっていた。
「本当……、まるっきり変身なんだから」
光が収まり、ゆっくりと目を開いた少女――ルビーは、すっかり変わった自分の姿に目をやり、小さく毒づいた。
普段の自分には特殊な封印がかかっていて、それが髪と瞳の色を変えていることは知ってるけれど、どうして服まで変わるのか。
そんなどうでもいいと思えることを考えながら、手に持っていたロッドを無造作に放した。
落下するかと思われたそれは、空中で不自然に静止する。
ふわふわと胸の辺りまで浮かび上がったとき、直前までついていたはずの柄が消えた。
先端の水晶球だけになったそれは、光に包まれてふたつに分裂する。
その光は所有者であるルビーの手に納まると、たちまち2本の短剣に姿を変えた。
「さて、行きますか」
肩にかかった髪を払いながら息を吐き出すように言うと、彼女は校舎の影にその姿を消した。
ばさっと地面に本の落ちる音がする。
先ほどルビーが身を隠していた場所から、ちょうど死角になっている場所。
そこに身を潜めるように姉を追ってきた紀美子が立っていた。
「嘘……」
無意識のうちにそんな言葉が口から漏れる。
つい先日校庭に現れた謎の集団。
その中にいた、翼の生えた人間を撃退した炎を操る少女。
それが自分の姉だという事実に、紀美子の頭は真っ白になっていた。
確かに、確かにあの人の額には、姉さんと同じ緑のバンダナがあったけど……。
顔は見えなかったが、髪の色が違った。
姉の髪は本当に他の色が混じっていないような純粋な黒で、あのとき現れた少女の髪は燃えるような赤だった。
だから予想もしなかったというのに。
「姉さんが……」
姉さんが、あの人たちと同じ世界の人……?
そこまで考えて、はっと目を見開いた。
あのとき焼かれた有翼人は確実に絶命していたと教師たちが言っていた。
死体は警察に頼んで回収してもらったらしいが、噂によるとその体も夜には完全に灰になってしまったということだ。
死体の行方はどうでもいいとして、問題なのは、あの騒ぎで――たとえ生徒ではなかったとしても――誰かが死んでいるということ。
その事実を思い出した途端、弾かれたように顔を上げる。
「……姉さんっ!?」
叫んで、慌てて床に落ちた教科書を拾い上げる。
他には何も落としていないことをさっと確認すると、紀美子は姉の消えた方向へ走り出した。
校庭には既に多くの邪天使が飛び交っていた。
その何人かを打ち落とすかのようにどこからともなく放たれた炎の矢を見て、空を見上げていたアールは目を細め、視線を動かす。
「来たな」
視界に入ったのは、先日自分たちの邪魔をした赤い髪の少女。
その場にいる者たちがその存在を認めた途端に建物から歓声が上がった。
この場所に属する彼らにとって、あの少女は悪の手から自分たちを守ってくれる正義の味方のようなものだろう。
こちらの考えも知らずに好き勝手なことを考える民衆らしいなどと考えながら、アールは辺りを見回していた視線を目の前の少女へと移した。
「インシングの帝国がどうしてこっちの世界を狙うわけ?いい迷惑よ!帰ってくれない?」
明らかに怒りを込めた口調で目の前の少女――ルビーが言い放つ。
「そういうわけにもいかん。全ては我が国の大臣のご命令だ」
「イセリヤの命令、ね……。でも、そんなのこっちには関係ないっ!」
言い切る前に一斉に襲い掛かってきた邪天使を短剣で薙ぎ払った。
一撃で絶命とはいかないものの、十分致命傷になりうる傷を受けて邪天使は地に落ちる。
「その命令、従ったこと後悔させてやるよ」
「ふん。そんなことを言っていられるのも今のうちだけだ」
吐き捨てるかのように言うと、アールは口元に笑みを浮かべて胸の前に両手を上げた。
「水の精霊よ。我今ここに汝に命ず。今この地、この場所に汝の力を満たし、この場に存在せし水に、更なる力を与えんことを」
ゆっくりと紡がれるその言葉を聞いた途端ルビーの顔色が変わる。
阻止しようと呪文を放つけれど、それはことごとく邪天使に邪魔され、アールには届かない。
「くそ……っ!」
届け、間に合えと念じながら邪天使を追い払い、必死の思いで言葉を紡いだ。
「バーニングっ!!」
「フィールドオブウォーターっ!!」
ルビーの手から炎が放たれたのとアールが手を振り上げたのは、ほぼ同時。
アールに届くより前に炎が消えた。
その瞬間、足元から駆け抜けるような酷い悪寒を感じた。
「あ……」
思わずごくっと息を呑み、後退る。
辺りの雰囲気が先ほどとは違って見える。
何となく空気が青く染まったように見えるのは、空気中に魔法的な因子を含んだ水が増えたからだろう。
あの言葉、そしてこの結果を考えれば、使われた呪文の効果など、考えなくても分かってしまう。
「お前は火の盗賊、だったな?」
確信を持った問いかけに、思わずアールの方へ視線を向けた。
「お前自身がその身に宿す魔力は『火』。反属性である水の力が増しているこの場で、お前の呪文が何処まで役に立つかな?」
勝ち誇ったような表情で問いかける彼女が楽しそうだったのは、たぶん気のせいではないだろう。
属性。それはインシングに属するものなら切っても切り離せない要素。
インシングの魔法には基本となる7つの属性があり、七大精霊と呼ばれる自然界に存在する精霊たちの最高幹部と言えるべき者たちがそれぞれを司っている。
その中に、属性を持った魔力を実に宿しているのならば必ず頭に入れておかねばならない法則があった。
相対するふたつの属性は、対になる属性に対して弱点にも最大の武器にもなるという法則――反属性。
火と水、風と地、光と闇。
それぞれ切っても切り離せない関係にあるこれらの力が、時には相手を飲み込み、時には飲み込まれる原因となるのだ。
唯一その法則に該当しない属性が『無』であり、弱点をなくすために多くの者がこの道に進もうと努力する。
しかし、ルビーの場合は既に母親から火の魔力を受け継いでいた。
属性を生まれ持ってしまっては、どうしようもないのが現実だ。
まずい……!
どうして考えなかったのだろう。
相手がこういう戦法を取ってくることなど、簡単に想像できたはずなのに。
魔力で作られた水の“場”。
アールの言葉どおり、今ここで水の呪文を使われた場合、反属性である火の魔力を持つ自分がどこまで耐えることができるかなんて、わからない。
「反論も出来ないか?」
悔しそうに唇を噛み締めながら自分を睨みつけるルビーを見て、アールは楽しそうに笑った。
「イセリヤ様のご命令だ。今ここで貴様の血、断たせてもらう」
そう言って上げられた手には、既に青い光が宿っている。
その言葉に、光に、相手の考えていることを悟ってはっと目を見開く。
「まさか……」
「ブリザードっ!!」
呟いたと同時に反射的に横へ飛んだ。
それでも避けきることなどできず、左腕を氷の吹雪が掠める。
「っつあ……っ!」
襲った痛みに着地することなどできず、そのまま地面を転がるように倒れた。
「……予想以上だな」
僅かに高揚したアールの声が聞こえる。
温かいものが左腕を流れ落ちていくのを感じた。
吹雪が掠めた場所から、赤いモノが溢れ、流れ落ちていく。
体を走る痛みを堪えて辺りを見回そうとして、アールの足元で視線を止めた。
先ほどの衝撃で落としてしまった短剣の片方が、そこに転がっている。
「降参するか?今なら命だけは助けてやるぞ」
降ってきた声に、短剣に向けていた視線を僅かに上へと上げる。
「冗談じゃない。そんなこと、誰がするか」
無事な右腕で体を起こしながら、ぎっと目の前の女を睨みつけ、きっぱりと言い放った。
そう。降参なんて、命乞いなんて冗談じゃない。
「そうか」
ふっとアールが哀れむような表情を浮かべた。
それに気をとられた隙に耳に飛び込んできた音に肩が跳ねる。
それは、今の自分にはとんでもない呪文を紡ぐ声。
「呪縛陣っ!」
反応したときには遅かった。
ルビーの足元に魔法陣が浮かび上がる。
そこから湧き出た黒い腕が、立ち尽くしていたルビーの足をしっかりと掴んだ。
「うわ……っ!?」
掴まれた瞬間、思わず叫んだ。
その声に反応したかのように、黒い腕は足だけでなく体や腕にまで纏わりつき始める。
しまった……!?
これは相手の動きを封じるための――呪縛の呪文だ。
自分には解くことは出来ないし、解いてくれる仲間もいない。
「これで終わりだ。マジックシーフ」
「冗談!誰が……!」
「この状態でこれを受けて、果たして無事でいられるか?」
くすっと笑うアールの目に宿るのは、冷たい光。
ぞくっとした悪寒がルビーの背を走り抜ける。
それはただの感覚でなく、周りの空気から感じ取ったもの。
「ディメンションブリザード!」
ゆっくりと腕が上げられ、発せられた言葉に目を大きく見開いた。
アールを中心に空気が急速に冷え、氷の塊が発生したのが肉眼でもわかる。
あれは水属性で最強と謳われる呪文だ。
水の力が強化されているこの場所で、火の魔力を持つ自分にあれが直撃したらどうなるかなんて、わかりきっていて。
それを認識した直後、襲ってくるだろう痛みと恐怖から逃れるかのようにぎゅっと目を閉じた。
その瞬間、何かが何かにぶつかったような音が聞こえて、伝わってきた衝撃に体が震える。
けれど、いつまで待っても想像した痛みが襲ってくることはなくて。
不思議に思い、閉じていた目を恐る恐る開いた。
「え……?」
開いた途端に視界に入ったのは、光り輝く半透明の壁。
それが自分に襲い掛かる氷の矢を全て弾き返していた。
「これは……」
「リベレイト」
後ろから聞き慣れた声が聞こえてきたと思った瞬間、ルビーを捕らえていた黒い腕が魔法陣と共に消滅する。
「だ、誰だっ!!」
呆然と目の前の光景を見つめていたアールが、自由になったルビーを認識した瞬間慌てたように叫んだ。
「初めまして」
その言葉に答えるかのように再びあの声が響いた。
校舎から聞こえる喧騒の中でもしっかりと響くソプラノ。
ルビーにとっては聞き慣れた、毎日耳にする声。
誰もが自然と校舎の方へと視線を向けていた。
「私もミルザの血を引く者の1人。そこにいるルビー=クリスタの妹」
言葉を紡ぎながらゆっくりと歩いてくる少女の、肩のところで切り揃えられた髪は金ではなく黄色。
ゆっくりとこちらへ向けられた瞳も髪と同じ黄色をしていた。
この世に――インシングでさえも――在らざる髪と瞳の色。
いや、世界にただ1組だけいるとされる母子と同じ色を持つ少女。
「光の魔道士。マジックマスター、セレス=クリスタ」
静かに告げられたその言葉は、アールの顔色を変えるには十分だった。
「以後お見知りおきを。ダークマジックの刺客さん」
笑顔を向けて、けれど静かに告げる少女の手には、先端に魔法の水晶を取り付けた長い杖が握られている。
その杖をゆっくりとアールの方へ向けると、それまで浮かべていた笑みを消して、強い口調で静かに言った。
「帰りなさい。でなければ、姉を傷つけた罪を今この場で償っていただきます」
その口調は穏やかなのに、告げられた言葉はやけに冷たい。
「私の属性は光。ここが水の属性で満たされていようと、関係ないですから」
そう告げると、先ほどとは違った冷たい笑みを浮かべた。
「く……っ」
杖を向けられたアールが思わず小さく呻く。
さすがに新たな敵の出現までは考えていなかったらしい。
悔しそうに唇を噛み締めると、待機していた部下たちに向かって手を振り上げた。
「全員退却だっ!この場は退く!」
その言葉に満足したのか、セレスと名乗った少女は静かに杖を下ろした。
その顔に浮かんだ柔らかな笑みを目にして、アールは悔しそうに彼女を睨みつける。
「……これですむと思うなよ」
「ええ。よく覚えておきますよ」
言おうと思っていた言葉を先に言われ、アールは面食らったという表情になる。
すぐに表情を戻して小さく舌打ちをすると、部隊を纏めて異世界への扉を開き、逃げるようにその中へ飛び込んでいった。
邪天使の消え去り、静まり返った校庭。
その中心に残った赤と黄色、その世界ではありえない色を持った少女たちは、暫くの間異世界への扉が開いた場所を見つめたまま、その場に佇んでいた。